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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2012年10月の記事

《風簷詠懷》 いくばくの

 

 [晨風夕影賦] マウス  

 

いくばくの錢を惜しみて使ひよきマウス持たざりし辠(つみ)のごとかり

 

 

 

 

《風簷詠懷》 授業日のみ

 

 [晨風夕影賦]   

 

授業日に髭そろふるを常として跳ねし白きにいた手懲(てご)りする

 

 

 

 

《風簷詠懷》 たはやすく

 

 [晨風夕影賦] 無數  

 

たはやすく怒り遷すにあらねども人を苛(いら)つる數しられざり

 

甲斐駒ケ岳 

 

 

《風簷詠懷》 天壤の

 

 [晨風夕影賦] 第一囘天壤祭獻詠  

 

天壤(あめつち)のむた在り經なむ友伴(ともがき)のなき影まつる知るべうち寄り

 

北岳 

 

 

《風簷詠懷》 秋の風

 

 [晨風夕影賦] 第一囘天壤祭獻詠  

 

秋の風吹くねさやかに謦咳をしのぶばかりのうつつにぞある

 

初狩より富士 

 

 

《風簷詠懷》 相むつび

 

 [晨風夕影賦] 第一囘天壤祭獻詠  

 

あひむつび永來しものを幽明の界(さかひ)きびしもけふのみまつり

 

 

 

 

《風簷詠懷》 つかのまの

 

 [晨風夕影賦] 塗炭  

 

つかのまの安らぎ得(う)るは胸裂くる思ひの果ての寛ぎにしかず

 

 

 

 

■ 硫黄島玉砕戦 (最終回)

 

 硫黄島玉砕戦 (最終回

  ──『教育勅語いま甦る』下巻(森田忠明著)より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、この硫黄島における戦いといい、続く沖縄での戦いといい、国内戦においてわが方は、戦局の悪化を背景に苦戦に陥って計り知れない損害を出したのは事実ですが、同時に熾烈な抗戦により米軍にも莫大な犠牲を強いたことが心理的に作用し、その後の米軍の本土侵攻作戦に大きな影響を与えたことは否定できません。


 つまり米国は、硫黄島・沖縄ともに、短時日のうちに容易に制圧できると予想したにもかかわらず、日本側の旺盛な士気と決死の反撃によって自軍が蒙ってしまった被害の規模から見て、兵力三百万以上が健在な日本本土を完全に屈服させるためには少なくとも五百万米兵の投入を必要とし、しかもそのうち百万ないしそれ以上の出血を覚悟しなければならぬと計算したのです。その犠牲の規模と米国民の許容度とを勘案すると、日本本土に上陸して決戦に持ち込むという作戦には躊躇せざるを得ず、その「日本侮るべからず」との恐怖的観念が原爆投下を招来し、当初の無条件降伏要求がポツダム宣言という「有条件」での停戦要求となり、わが国はやがて同宣言を受諾することになります。


 このような意味で、硫黄島の敢闘がもたらした成果にはすこぶる顕著なものが認められます。それは、ひいては米国が当初いだいた皇室抹殺の企図を緩和させる原因ともなりました。私たち後生は果たして、硫黄島で玉砕した二万の先人に「諸君の勲功を称え、諸君の霊に対し涙して黙禱を捧げ」(栗林訓示)ることのできる、至純の魂を持ち合わせているでしょうか。


 四ヵ月後のご訪米を控えた平成六年(一九九四)二月、今上陛下の強いご希望があり、両陛下は慰霊のため硫黄島をご訪問になりますが、硫黄島の戦いから四十九年目のことでした。ご感慨を二首ずつ詠まれています。


 天皇陛下御製
   硫黄島
  精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき


  戦火に焼かれし島に五十年も主なき蓖麻(ひま)は生ひ茂りゐぬ


 皇后陛下御歌
   慰霊碑に詣づ
  銀ネムの木木茂りゐてこの島に五十年眠るみ魂悲しき


  慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ

 

 さらに、その翌年七月、東京都硫黄島戦没者追悼式に参列した遺族代表に対して述べられたお言葉があります。


 「硫黄島の戦いが終わって五十年が経ちました。皆さんには七月六日の戦没者追悼式に参列し、この長い年月を振り返られることに深い感慨をお持ちのことと察しております。
 私どもは昨年二月、硫黄島を訪れました。慰霊碑に参拝し、島を巡り、水もなく地熱の高い厳しい壕生活の中で、祖国のために死力を尽くして戦った戦没者をしのびました。二万の未来ある命が失われ、今なお一万の遺骨が地下に眠っていることに尽きることのない悲しみを覚え、今日の日本がこのような多くの犠牲の上に築かれたことに深い思いを致しました」


 天皇陛下は「精根を込め戦ひし人」と詠われ、「祖国のために死力を尽して戦った戦没者」と仰っています。戦後の日本国民個々はどうあれ、両陛下が、栗林のいう「諸君の勲功を称え、諸君の霊に対し涙して黙禱を捧げ」ておられるといえることだけは確かです。
 (完)

 

 

 

 

《風簷詠懷》 依存とふ

 

 [晨風夕影賦] 前途  

 

依存とふ愚のなかりせば苦しみを抜けいでて道われと開けむに

 

 

 

 

 

硫黄島玉砕戦 (14)

 

 硫黄島玉砕戦 (14

  ──『教育勅語いま甦る』下巻(森田忠明著)より

 

 

 

 

 

 

 

 もう一つは、擂鉢山に翻った国旗日の丸のことです。


 (昭和二十年)二月二十三日には、島の南北を分断しようとした米軍の集中攻撃で擂鉢山地区は孤立状態に陥り、その夜、守備兵は総攻撃を行なって玉砕するのですが、午前十時三十分頃、山の頂上に小さな星条旗が立てられました。ポールは、何とか雨水を溜めようとして日本軍がつくった貯水槽に取り付けられ、空爆で破壊されていた鉄製の細いパイプだったのです。上陸以来、予想外の大損害を強いられていた米海兵隊員は歓声を上げて口笛を吹き、沖の艦船からは汽笛が鳴り響きます。しかし人も知る余りにも有名な、六人の米兵による擂鉢山頂上の米旗掲揚写真・銅像はこの時のものではありません。最初の掲揚直後、記念すべき最初の旗をひそかに持ち帰ろうとした米将校が別に用意し、その代替旗が揚げられる際、従軍中の通信社カメラマンがたまたま撮ったものでした。


 それはともかく、翌日未明、全員玉砕したはずの擂鉢山の頂上には、星条旗はなく、何と日の丸が翩翻とはためいていたのです。北部地域から硝煙の向こうに望見した日本兵にとっては、とても涙なくしては見られぬ光景でした。士気を鼓舞された兵たちはその日、意気を漲らせて米軍と激闘を重ねます。一方、擂鉢山にまだ生き残りがいると見た米軍は海陸空から猛攻を加え、山頂にまた星条旗を立てました。


 そして明けて二十五日早朝、いつの間に取り替えたのか、またもや日の丸が、それも前日のよりも小振りの、血染めのものとおぼしい日の丸が、燦々たる朝日を浴びて泳いでいるではありませんか。米軍が、その旗竿を抜き取ったのが十時過ぎ、毟り取った日の丸を火焔放射器で焼き捨てるそばでやっと星条旗を掲げたのは、午後一時前のことでした。翌二十六日以降、奇跡は三度起こりませんでしたが、たぶん重傷者が「何くそ」との思いで懸命に行なったであろう二度の国旗掲揚が、島内に戦う戦友に与えた激励には表現しがたいほど大きなものがあったことでしょう。


 なお、硫黄島作戦がほぼ終了したと見なした米軍が、擂鉢山の北二〇〇メートルの地点で公式に国旗掲揚式を実施した三月十四日、擂鉢山の星条旗は降ろされました。


 玉砕の島、硫黄島には、今も一万三千体といわれる遺骨が地下に眠っています。占領した米軍が滑走路を拡充し、戦後も長く米国の施政権下に置かれてきたことと無縁ではありません。昭和四十三年(一九六八)に日本に返還され、いまだ故国に帰れない戦死者の遺骨収拾も行われていますが、地下壕の熱気や落盤の危険性から遅々として進んでいないのが実情です。現在は海上自衛隊基地になっており、米軍による艦載機の発着訓練場としても使われています。
 (つづく)

 

 

 

 

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