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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2010年11月の記事

筒おと高し

黃海の筒おと高くつく擧にし出でしえみしを伸(の)すよしもがも
 

砲戰をよそごとに見るいさよひの眼(まなこ)ゑぐらむ怒り滿ちくも
 

讎(あだ)が利(と)き鉾ものかはと膽(たん)甕(かめ)のごと奮ひ立つ人あらなくに
  

内にのみ驕りをさらし危機管理ほどほどもなきたはけ目に立つ

 

米中のはざまにあへぐ身にたえずまとふ黑雲はや祓へかし
 

 

 

 

 

華夷の別

能面にまがふつらして胡錦濤かろくあしらふ日本總理を
 

手をにぎり假面にゑまひ小短くあどうつわざは童すらする
 

日の本を負へる緣(よすが)によくよくの虛假(こけ)も具へよいささかの意地
 

内そとの文目(あやめ)もわかぬ心より舌禍かさねて身をつぶすらむ
 

華夷の別しらで齒のうく言に醉ふおとどの上にかかる憂きくさ

 

 

 

 

「三島森田両烈士40年祭」のご案内

三島由紀夫大人命 森田必勝大人命
御鎮座祭並びに40年祭のご案内

 

 

 拝啓 霜降の候、尊台には弥弥ご清栄の事と、お慶び申しあげます。
 昭和45年11月25日、楯の会隊長三島由紀夫大人命、同学生長森田必勝大人命が市ヶ谷台に蹶起してより早や40年の歳月を数へます。
 当時、楯の会は解散しましたが、両大人命の精神を後世に伝へるべく、有志集ひ、「三島森田事務所」を設立いたしました。
趣意は、「青年の心意気を示さんとする学生長森田の精神を後世に恢弘せよ」との隊長の命令を実現することにあります。
 今年は、二柱の御霊をお祀りするみ社「清明宮」建立の運びとなり、御鎮座祭並びに慰霊のみ祭を下記により、ご縁のある方々と相図り斎行いたすことになりました。尊台にはご繁忙の節とは存じますがご参列下さいますやう、ここにご案内申し上げます。
敬具


平成22 年11 月
                                 三島森田事務所

 

     記
平成22年11月25日 午後3
時開式(雨天決行)
 横浜鶴見神社にて
  神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
   (JR鶴見駅東口より300米/京急鶴見駅西口より350米)

 

 祭 主 須賀  清

 斎 主 金子元重
 祭 員 長尾俊教
      原田強士

 典 儀 森田忠明
 雅 楽 横浜雅楽会


式次第

開式/国歌奉唱/修祓/招霊の儀/献饌/祝詞奏上/祭文奏上/檄文奉読/辞世奉詠/隊歌斉唱/玉串奉奠/撤饌/万歳三唱/斎主・斎員退下/奉納演舞/御神酒拝戴/記念撮影/記念講話/直会

懇親会 鶴見神社参集殿

 

参加費(直会費用込み)
MM会員及び元楯の会 1万円
一  般       5千円
学  生       2千円


参加費(み祭のみ)
MM会員及び元楯の会 1万円
一般・学生          1千円

 

連絡先 三島森田事務所
03ー5813ー0677

kaikou@cream.plala.or.jp

 

 

 

 

幕末の志士のこころ (6)

 〈宮部鼎蔵〉


 文政3年(1820)、肥後の医者の家に生まれた熊本藩士。十代には医学を修めた。しかし家業の医家を継がずに山鹿軍学を学び、31歳で藩の軍学師範となり、嘉永4年(1851)に江戸へ遊学する

 その年の暮、吉田松陰が藩発行の通行手形を待ち切れずに江戸から東北遊歴に無断出奔を仕出かしたのは、親友である鼎蔵との旅の約束を重んじたからだつた。

 翌年熊本へ帰つてからは林桜園に師事し、国学古典の研究を深めてゆく。ペリー来航で再び江戸へ赴いて同志糾合に動くものの、松陰の渡米失敗後、志を得ないまま熊本に帰つてくる。次いで、弟らが起こした乱闘事件で罪を得て軍学師範職を解かれ、城下を離れて郷里へ退隠した。
 文久元年(1861)、鼎蔵のもとに清河八郎がやつてきて国事について談じ、奮起を促す。これを機に翌年、門人とともに京都に上つて有志の公家及び諸藩の勤王の志士らと親交を深め、尊王攘夷派志士の間に重きをなした。細川藩を興起させることにも努めたので、その熱意に押されて藩議も勤王に踏み切ることになる。

 同年、藩庁に建言して禁裏守護の藩兵を上京させ、文久3年、全国諸藩から選抜された3千人からなる京師守護の御親兵設置が決まると、総督三条実美のもとで総監に任じられるのだが、8・18政変で長州藩が京より追放されるや、鼎蔵も実美ら尊攘派の七卿とともに長州へ落ちていつた。
 元治元年(1864)には再び京都に潜伏し、天下の形勢を一転させるべく同志たちとクーデター計画を謀議する。祇園祭の頃の烈風の日を狙つて京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて将軍後見職一橋慶喜と京都守護職松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州へ遷らせ奉るといふものだつた。

 この計画を協議する会合を6月5日夜、三条の旅宿池田屋で開いた。ひそかに集ふ者は肥後、長州、土佐をはじめとする諸国の尊王攘夷派30余名。その場を、新選組に襲撃される。2時間にわたる深夜の激闘で鼎蔵は重傷を負つて自刃、45歳の生涯を閉ぢたのだつた。
 鼎蔵は嘉永4年暮、吉田松陰と一緒に江戸を出発して東北へ旅立ち、翌年2月佐渡島へ渡つた。佐渡には、順徳上皇の火葬塚である真野御陵がある。順徳上皇は、承久3年(1221)、日本を真の日本に戻さうと、父帝の後鳥羽上皇とともに政権奪回を目指して鎌倉幕府打倒の挙兵をされた(承久の変)。しかし失敗に終つて25歳の若さで配流の身となられ、在島21年、再び都に帰ることなく、御みづから食を断つて46歳で崩御される。

 その御陵へ詣で、「覚えず悲憤して」一詩を賦した。


  陪臣 命を執り羞づる無きを奈(いかん)せん
  天日光を喪ひ北陬(ほくすう)に沈む
  遺恨千年 又何ぞ極まらん
  一刀断たざりしや賊人の頭

 

 鎌倉幕府の執権北条義時と泰時父子は承久の変後、御歳わづか4歳の第85代仲恭天皇にはご譲位を強要し、先の2上皇を佐渡と隠岐へ配流するといふ臣節に悖る挙に出る。土御門上皇は御みづから土佐、ついで阿波へお遷りになり、3上皇ともに現地で崩御された。奮戦した上皇方も変後の処分に遭ひ、公卿・武士の多くが斬られてゐる。
 鼎蔵は、「陪臣の分際で上皇配流を命じた恥知らずな北条の行為は、何に譬へようもなく憤ろしい。わが国は、まるで太陽が北の果てに沈んで暗黒の世になつたかのやうだつた。国史上の、大義に反する大罪への恨みは、何百年経ようが消え去るものでも、忘れ去られるものでもない。かかる国賊の首は幾たび斬つても、斬り足りるものではない」と、北条の仕打ちを徳川幕府になぞらへるかのやうに怒りを発したのである。参詣時のこの詩は、松陰の感慨詩とともに御陵近くの詩碑に刻まれてゐる。
 次の和歌は文久2年元旦の作。


  いざ子ども馬に鞍おけ九重の御階(みはし)の桜ちらぬその間に


 「さあ同志諸君、早く馬に鞍を置け。陛下も仰つてゐるではないか、『御所の御階の桜が強風に散らされるやうに、わが国は外国の侵略者どもに踏みにじられてしまふぞ。これを防げ』と。急ぎ出陣して日本のいのちを守らうではないか」。

 孝明天皇の大御心におこたへしようとする、憂国の志士の決意が如実ににじみ出てゐる歌である。

 

 

 

 

市ケ谷台の寒柝 (下)

 

 蹶起の趣意を考へる

 「檄」、所謂蹶起趣意書は、「戦後日本」に対する非常に激しい批判文書となつてゐます。その檄文の中でも重心のかかるところを引用しますと、何と言つても、
 ――日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。
 この件りを一層絞れば、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」「生命尊重以上の価値の所在」、ここではないかと思ふのです。
 命を懸けられる対象は檄文の表現では「日本」とあります。その「日本」のために死ぬことによつて、「日本」すなはち「生命尊重以上の価値の所在」であることを証明しようとしました。具体的には、ここに言ふ日本を「骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけ」ることによつてそれを達成しようとし、事実、夙志を果たしたわけです。
 そもそも「日本」とは、檄文に「日本の軍隊の健軍の本義」として挙げてゐる、守るべき「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統」のことにほかなりません。これを換言すれば、歴史的文化的に裏打ちされ道徳規範をともなふ国民の生活の場としての国、と言ふことができませう。
 それは国語や礼儀作法、慣習、父祖の営為その他を包含するものであつて、単なる現在只今の政府やこの国土に生きてゐる者のみが構成するものでは決してない。かやうに瑞々しく息づいてゐる生命体が、そのために命を賭さうとした「生命尊重以上の価値」をもつ「日本」であるわけです。
 僕は、この事件を「市ケ谷台の寒柝(かんたく)」――冬の夜寒に打ち鳴らす激しい拍子木の音、と見なす者です。国籍不明に近い憲法を押し戴き軽薄なヒューマニズムに酔ひ痴れて惰眠を貪る日本国民に、かかる寒寒しい世にあらうとも、我らの眼前には「生命以上の価値」を有するものが厳として在る、それに目覚めねばならない、と警鐘を乱打した。ここにこそ事件の最大の意義を汲み取り、満腔の敬意と評価を捧げたいと思ふのであります。
 そこでは同時に、大なる矛盾を蔵する日本国憲法の抜本的改正を求めてゐる。全体として愛国心の一段の昂揚を促したこと、これは誰も否定できません。これらが、市ケ谷台事件の訴へる核心ではなかつたでせうか。
 彼らの、まさに命をもつてする慫慂ないし付託に、三十五年といふ永い歳月を閲しながら誰一人として未だに答へ得てゐないのはいつたいどうしたものか、よくよく考へてみなくてはなりますまい。

 

 憂国の至情
 
三島隊長の命令書にはまた、次のやうな文言も見えます。
 ――森田必勝の自尽は、自ら進んで楯の会全会員及び現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて、青年の心意気を示さんとする、鬼神を哭かしむる凛冽の行為である。三島はともあれ、森田の精神を後世に向つて恢弘せよ。
 かう表現されてゐる当の森田必勝さんの辞世に、
 今日にかけてかねて誓ひし我が胸の 思ひを知るは野分のみかは
 とあります。三島さんともどもに決死の蹶起に赴いた若き必勝さんに共鳴し、その精神を後世に向つて恢弘せんとする意志を有するほどの人士ならば、楯の会会員ならずとも進むべき道は既定のものであるはずです。
 彼らが命を懸けた我らの祖国「日本」のために、真摯かつ懸命に、「日本」の真姿顕現を阻むあらゆる障碍を打破すべく、おのおのの立場立場において、なしうることを鋭意なしゆかねばなるまいと痛感するのです。たとひ牛歩でもいい、またビラ一枚配るのでもいい、できることは幾らでもあります。
 実際彼らが命をぶつけた現行憲法の問題にとどまらず、今や内憂外患は挙げるに遑なきほど、昭和天皇の御製にいふ「峯つづきおおふむら雲」のごとくむくむくと、「日本」のいのちに襲ひかかつてゐる。靖國神社、皇室典範、歴史認識その他、山積する祖国の根幹にわたる喫緊の諸問題の解決に向けて猛然と挺身したいものであります。
 年年のこの野分祭なる慰霊祭といふのも、決して単に慰霊し痛憤の志を偲ぶていのもののみに終らせてはなりません。精神の恢弘といひ志の継承といふのは、ひとり胸中に反芻するものではなく、行動に移さねば到底意味をなさない。慰霊祭とは、慰霊を通じ再確認した先達の志を、わが身をもつて今の世に実現すべく限りなく努力を傾注する誓ひの場にほかなりません。
 吉田松陰も刑死の前夜、
 討たれたる吾をあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
 と詠つてゐます。死に就く自分を憐れむよりは、自分の尊攘の微志を継ぎ往いて眼前の国難に挺身してほしいものだ、との謂であります。
 ならば、「我が胸の思ひを知るは野分のみかは」、わが胸の思ひを知つてくれてゐるのは秋の野に吹く野分だけではないはずだ、敢へて言へばここにご出席の諸氏一人一人も必ずやさうであるに違ひない、さやう後続する有志の存在を信じながら憂国の至情のまにま、一種まさに安堵の境地で隠り世に神上がられたはずと信じます。
 「現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて、青年の心意気を示さ」れた森田必勝さんたちを祭る本日の慰霊祭の意義、さうして我らが進んで感得すべきことは、もはやこれ以上喋喋しなくとも自明でありませう。
 かの三十五年前の事件を、今になほ「市ケ谷台の寒柝」と受け止めるゆゑんもまたここにあると切言して、僕の拙い話を終らせて頂きます。

 ご清聴、有難うございました。 (をはり)

 

 

 

 

市ケ谷台の寒柝 (中)

 

 三島憲法

 三島さんの憲法観には見るべきものがあります。以下、自分流に解釈させて頂きますと、自決の年、楯の会会員に配布した「問題提起」に、「現行憲法の最大の問題がひそんでゐる」と喝破したのは成立にかかはる根本精神についてでした。
 ――憲法の法理論体系が国家の投影であるか。
 といふに、さにあらず、「確たる国家像を背後に持たず、国際連合、憲章にすべてを委任する形で成立」したもの、と論定してゐます。彼が仔細に見立てる通り、肝腎の前文にすらも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して云云」なんぞの、かいもく厳しい国際環境を踏まへぬ空想的文言が何の痛痒も感ぜられぬかのやうに平然と羅列されてをります。古く由緒ある国家のありやうを、はるか後世の人為に成る、それも余りに空疎な法体系が定義するのは、まことに本末顚倒もはなはだしいことです(憲法を立国法―国体法との関連によつて考察した三潴信吾氏ほかの論考があります)。
 蹶起時のいささか長文の「檄」に、「法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白」「その忠誠の対象も明確にされなかつた」とあるごとく、この「問題提起」は憲法の内容が孕む矛盾をも鋭く抉り出す構へを見せてをります。
 ――第一章が日本の「国」とは何ぞやといふことを規定してゐるとしても、第二章は明らかに、国家超克の人類的理念について述べてゐる。
 いふまでもなく日本国憲法第一章は「天皇」、第二章が「戦争の放棄」の章です。第一章には、日本国の象徴にして日本国民統合の象徴とされる天皇の地位(皇位)が「世襲」であるほか、その国事行為に関しても記載されてゐます。曲りなりにも天皇国日本のありやうを謳ふ第一章に対し、第二章は「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」て戦争を放棄するとともに、戦力を持たずと宣言し、交戦権を否認するものです。
 三島さんにしてこれを虚心に読めば、軍隊保有は違憲となり、政府解釈による自衛隊創設は私生児の出生に異ならない。国軍の不在、といふよりその一方的放棄は国防の責務を遂行しないばかりか、最後の砦ともいふべき天皇の奉護に意を用ゐず、醜くも実態なき「人名尊重のヒューマニズム」に走ることであつて、かかる低俗なる「国家最高の理念」に低迷する限り、
 ――国民の側から云へば、忠誠の対象が不分明であり、国家の側から云へば、国家意志の不明確である。
 と見なさざるを得ない。要するに、独立国家たる日本国としての機能は麻痺してゐるに等しいといふわけです。
 国家意志と言ふとき、かの北朝鮮による拉致事件に照らせば、現今の政府は発覚よりこの方、いたづらに人道問題としか捉へられぬありさまで、小泉訪朝時にも金正日に対してそれを繰り返すばかり、一言だに国家主権への侵害行為との言葉は発してをりません。諸外国への明確な国家意志の表示なきていたらくは、悲しいかな前後一貫してゐるのです。
 もう一点、「問題提起」では、じつは第一章「天皇」章じたいにひそむ論理矛盾にも言及してゐます。すなはち、天皇の地位を第一条で「主権の存する日本国民の総意に基く」として国民の総意次第による改廃を許容しておきながら、第二条で継承者さへあれば「皇位は、世襲のもの」とするのはまことに奇怪な論理である、と。
 三島さんは「国民の総意」を、現在この国土に生きてゐる者のみの意向と限定的に解釈してをり、過現未の民族的意志とは受け取つてをりません。つまりは、条文の表現法にも決定的な瑕瑾を生じてゐることになりませう。
 彼の憲法観は、かくして次の結論を生みます。昭和四十五年七月の政府への建白書「武士道と軍国主義」において、命を懸けるべき歴史と伝統の国「日本」を骨抜き同然にしてしまつた現行憲法の不当性を糾弾して言つてをります。
 ――空文化されればされるほど政治的利用価値が生じてきた、といふところに、新憲法のふしぎな魔力があり、戦後の偽善はすべてここから発したといつても過言ではない。完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的頽廃を惹き起こす。
 究極のところ三島さんは、「文化概念としての天皇」(『文化防衛論』)の復活を促します。「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」、つまり忠誠の対象は「美の総攬者」としての天皇、であらねばならぬと力説してやまないのです。
 このほど自民党憲法改正試案を作りましたが、ご存じの通り、上に見た三島さん指摘の現行憲法の内包する問題点をクリアしてゐるとは到底言ひがたく、その矛盾払拭への努力の痕跡は小手先の糊塗以上には何ら現れてゐない。死を伴ふ訴へが、三十五年の歳月では為政者覚醒には短すぎるとでもいふごとき次第に、彼の無念の歯嚙みが髣髴するのであります。
 ことには皇室典範をめぐる、長子を優先して女系天皇を無条件に容認する「有識者会議」の報告書そのままに、政府は明年、典範改正案を国会へ提出する意向です。三島さんの憤り、さう容易くは鎮まりさうもないやうに思はれるのです。 
(つづく)

 

 

 

 

市ケ谷台の寒柝 (上)

 本稿は平成17年11月24日、東京・高田馬場で斎行された三島由紀夫・森田必勝両士を慰霊追悼する「野分祭」における森田忠明講演録要旨である。今より遡ること5年の代物ながら、講演者の現在の認識も当時とさして変るものではなく、また本年が両士自尽後満40年の節目の年にあたることから、大方の参考に供する意味でここに掲載することにした。(全3回完結)

 

 

 「檄」に拠る事件把握

 前日から富士山麓における戦闘団訓練のさなかの昭和四十五年十一月二十五日、期間中は携帯禁止のはずの小型ラヂオを持参してゐた同僚が、市ケ谷駐屯地での事件の第一報を知らせてくれました。僕が満二十一歳のことですが、自身未熟とは承知しながら、耳にした途端、正直言つて「先を越された」との無力感に襲はれたのが、今まざまざと蘇ります。
 翌二十六日午後、訓練終了後の講評時、満目紅葉後期らしい景観のなかで、整列した部隊を前に師団長だつたか、ごく簡潔に事件の概要にふれたのち、「諸君は決してこのやうな政治的主張に惑はされることなく、祖国防衛の任務に一途に邁進してほしい」旨の、命令にも似た訓示を垂れられたのも、はつきり記憶に残つてゐます。練馬の第一普通科連隊へ帰隊後、当時籍を置いて ゐた夜学へ通ふ気にもならず、数日間、事件を報ずる新聞などを買ひ漁つて貪り読んだものでした。
 高校からその頃まで、「論争ジャーナル」誌に載つた三島さんの「反革命宣言」や『行動学入門』『尚武のこころ』『文化防衛論』、また対談集の『憂国の論理』などを読んでゐましたが、四十五年春になつては『春の雪』を繙き、『奔馬』を読み終へたのは、メモを繰れば八月二十三日でした。『暁の寺』はその年の師走に読了したやうです。
 ただし、何せ若かりし時代ですし、頭脳も元来緻密にはできてをりませんので、どれだけ理解し肥やしと成し得たか、これは甚だ心許ないところと言はねばなりません。「先を越された」との咄嗟の感覚も、いくら愛国の思ひと行動への志望が膨らんでゐたとはいへ、あくまで皮相な青年の客気がしからしめたものだつたでせう。
 三島さんの文学作品、なかでも「豊饒の海」四部作は、生半可な素養で核心に迫らうなんぞ不可能と言ふに尽きます。とくに唯識論については小室直樹さんほかが熱心に説明を試みてゐますが難解至極、ただただ推知するばかりです。
 ところで事件前後、僕は蹶起した人たち、あるいは楯の会に属した人々とは面識はありませんでした。ですが三島文学のよき読者でまつたくないままに、その後も三島さんの作品を読んだり必勝さんの遺稿集『わが思想と行動』に触れたりし、双方を知る方々との交際を通じつつ三十五年後の今日に至りました。
 かういふ経緯の末、必勝さんを含む若手四人も参加したあの事件を見る場合、たとひ把握の底が浅いとの批判を蒙らうとも、やはり「檄」に拠つて初めて憂国の思想そして蹶起の行動が浮彫りとなり、逆から言へば、事件の全体像を如実に映し出すものこそ「檄」そのものであらう、またさう見立てねばならぬと考へるのです。
 ちなみに小賀正義さん宛の「命令書」に、
 ――今回の事件は、楯の会隊長たる三島が、計画立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。
 ついで、小賀さんをはじめ古賀浩靖さん、小川正祥さんを含む「艱苦の生に残」された三人に対して、
 ――ひとたび同志たる上は、たとひ生死相隔たるとも、その志に於て変りはない。
 とあるによつても、「楯の会隊長三島由紀夫」名でしたためられた「檄」は、取りも直さず蹶起した五人全員、ひいては楯の会全体の考へと断じていささかの不都合もない。いや、正しくさうなのだと言ひ切つていいでせう。
 結果、僕は「三島事件」でなくして「市ケ谷台事件」と呼称するわけなのです。

 

 事件当時の日本の状況

 市ケ谷台事件の頃、すなはち高度経済成長に馬力がかかつてゐた昭和四十年代前半時分の状況はといへば、わが国では公害問題が頗る大きな社会事件となつてゐました。一方では、林房雄の『大東亜戦争肯定論』は既に世に出てゐたものの、大戦で散華した人々は強ひられた犬死に異ならず、生きてなんぼのもの、生命の価値が至上のものであるとの観念が世に揺るぎなく根を張つてゐた。それはまさしく、四十五年三月に起つた「よど号事件」なるハイジャック事件における日本政府の「人命尊重」方針がみごと象徴してゐたと言へませう。
 また、日本国憲法は世界に比類なき平和憲法であり、この憲法あつて平和は堅く守られてゐるとの錯覚が、あたかも真実であるかのやうに平然と主張されてゐたものです。不動とも見紛ふ地位を築いてゐた護憲と平和、さうして民主主義といつた念仏といふか合唱といふか、その強力な攻勢の前に精神の自立、魂の重さなど形而上の価値は一顧だにされぬふうな地位でしかありませんでした。
 憲法改正問題にせよ、改正条項はないも同然で、憲法を遵守すべき閣僚が改正志向の発言をするのは憲法違反であるとの風潮は如何ともしがたく、自衛官の大学学部や大学院への入学は白眼視され拒否される傾向にあつたことが象徴するやうに、自衛隊の社会的容認度はきはめて低いありさまでした。日本国憲法と日米安保とによる日本及び日本人の独立国家にふさはしからぬ自立抑制装置、それを操作してゐる者は、あらうことか日本人自身であつたのです。
 このことは、戦後二十五年を通じ国民の間に国家意識が皆無、といふのが誇張ならずゐぶん稀薄であつた事実を当然意味します。現に国防といふことについても、昭和四十五年発行の猪木正道の著作が、『国を守る』なる書名を付して啓蒙せねばならなかつたことからも明らかなやうに、国民の大方が関心らしい関心を示さうとはしない、閉塞感ただよふ時代でありました。
 国家意志に至つてはあつて無いも同じで、総じて言へば当時の日本は暗くわびしく、しかし志ある者にとつては黙止できぬ、まことに憤ろしい観を呈してゐたと表現してよろしいかと思ひます。市ケ谷台事件はかかる時に勃発したわけです。 
(つづく)

 

 

 

 

蹉跎たり

もろもろの見通しいへる大局に立てば蹉跎(さだ)たり尖閣のうみ
 

怒るらく友好互惠にうつつなき心たぎらせ醜(しこ)のはびこる
 

耽耽とやいば研ぐ仇くじくすべなくしていかがみ國まもらむ
 

染み返る一の國益なにかあらむ已むにやまれず出だせるビデヲ
 

攘ふべき一の國賊たれかあらむ靑史に堪へぬ夷狄の走狗
 

劉暁波受賞をうとみ立ちまはる支那を苛(さきな)む意氣さへもなし
 

揉み手してせがむ會談なれるとも獪(ずる)き中露に何およぶらむ
 

無償化に快哉さけぶ正日の先軍いよよ軌道に乘らむ
 

蠻國をのべついたはる政權にみくに盗られて籠るべしやは
 

狂瀾を碎かむたどきすみやかに日出づる國の面(おもて)おこさな

 

 

 

 

戦の一字

領海にはらからを殺め傷めつぐ蠻支の罪になど口つぐむ
 

齡にも似で庇ふこそうたてけれ生き馬の目をぬく國をだに
 

ビデヲ秘し船をさ放ち鄰國の肩持つやつこ鞫(きた)めつくさな
 

守秘せずばかたく懲らすとこの期にしおのれ忘れて謀る棒鱈(ばうだら)
 

戦(たたかひ)の一字おそれて大局に立つと怯えの語(こと)いだしけむ

 

 

 

 

わが國威

みくに守りたのむ甲斐ある人を無みことごと仇の風下に立つ
 

わが國威しづみかかれるうな原に見よや蠻夷の船團來(く)らし
 

おしなべて右顧左眄せるまつりごと死語となりしや國家主權は
 

泥濘の泥すするともにつぽんのいのちをまもる勁(つよ)き意志もが
 

なよなよと膝折り伏せて召還の駐露大使をかへす僻(ひが)わざ
 

四(よ)つに組む意氣地はいづこしつかりと唱ふる呪文消えて果敢(はか)なき
 

齒嚙みすらなきつらに蜂めでたくも衝突映像地球をめぐる

 

 

 

 

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