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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2010年07月の記事

幕末の志士のこころ (4)

 〈吉村虎太郎〉

 

 名は重郷、通称虎太郎。天保8年(1837)、土佐国の庄屋に長男として生れ、幼少より俊敏、郷里では習ふべき師なしといはれ、城下に出て勉学に精を出した。12歳で父に代つて庄屋となり、顕著な実績をあげてゐる。武市瑞山の土佐勤王党に加はつたがあきたらず、文久2年(1862)、長州の久坂玄瑞と行動を共にするため脱藩。挙兵倒幕を策し同志の蹶起を唱へるが、4月の寺田屋の変の一味として捕へられ、土佐で幽囚の日を送つた。赦免後の翌文久3年2月、再び脱藩して上京し、尊王攘夷派と盛んに密議を凝らす。
 同年8月13日、長州藩と急進派の公卿が倒幕への人心の結集を図らうとした、孝明天皇の大和行幸の詔勅が下つた。これに呼応して直後の17日、王政復古の機をうかがつてゐた虎太郎は同志とともに天忠組(天誅組)を結成して三総裁の一人となり、中山忠光を擁して大和の五条代官所を襲撃する。ここに新政府をつくるのだが、薩摩、会津の企てによる8月18日の政変で行幸は急遽中止となつて形勢は逆転し、天忠組はたちまち逆賊の名を着せられることになつた。
 朝廷からも幕府からも追討される孤立無援の窮地に陥りつつ、虎太郎は高取城へ夜襲を敢行するが味方の誤射によつて重傷を負ひ、退却。以後、籠に乗つて指揮してゆく。3万数千の諸藩の兵に追はれる千数百の天忠組に、忠光が解散を命じたのが9月19日。残党は奥吉野の山中の難路を踏破して脱出を試みるが、その間にも同志は次々と討死し捕縛され、挙兵およそ40後の9月27日、虎太郎は鷲家谷(奈良県東吉野村)といふところで、つひに銃弾を浴びて斃れた。享年27。

 

    逸題
  桜樹未だ開かず 柳眼嬌たり
  心を決して友を呼び 酒終宵す
  一家一国 何ぞ惜しむに足らんや
  宜しく本朝をして本朝たらしむべし


 第1回目の脱藩に際してつくつた漢詩。「桜はまだ花を開かないが、柳の新芽はあでやかである。この時にあたり、心に決するところあつて同志と寄り合ひ、悲憤慷慨して酒を酌み交し、夜を徹するのである。たかだかわが家、わが藩のことでどうして思ひ悩むことがあらう。わが国を本来のあるべき姿に戻すことこそが大義なのだ」。覚悟のほどが偲ばれよう。

 

  曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと


 戦陣における詠。「今宵は一点の雲もなき9月13夜の光を受けてゐるが、これからは毎夜月は欠け始める。そのやうに自分の命もいつ果てるかわからない。しかしわが心が清いやうに、死屍を照らす月の光も清いことであらう」といふほどの意。


  吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ


 辞世とされてゐる歌だ。「諸藩の兵に追はれて吉野山の奥深く入つてきたが、傷が化膿して動作がままならない。しかし自分には、何くそといふ弛まない覚悟がある。折しも風に乱れふもみぢ葉を、敵と交へる太刀が飛ばし続ける血煙と見てもらふことによつて、わが覚悟のほどを想像してほしいのだ」。
 虎太郎の母の作がある。

 

  四方に名をあげつつ帰れかへらずばおくれざりしと母に知らせよ


 歌の意は、「国事に努める上は、天下に忠義の大功を立てて故郷に錦を飾れ。もし死ぬやうなことがあれば、男らしく勇敢に戦つたと母に伝へられる働きをせよ」。この母にしてこの子ありと痛感させられる力強い歌である。
 次に述べる伴林光平は、虎太郎と同じ陣中にゐたが、捕縛後に書いた『南山踏雲録』に、「吉村虎太郎、土佐の郷士なり。寛仁大度、よく人を愛し、よく人を敬す」と書き留めてゐる。  (この稿、をはり)

 

 

 

 

菅「靖國不参拝」の妄論

 公的立場と私見とを混同する輩には幾度でも強調しよう、「総理大臣が靖國神社へ参拝し、国防の第一線に斃れた人びとを鎮魂することは、後生の日本国民代表者としての責務だ。それは、個人的所論ないし偏見を超越した水準にある」と。
 首相菅直人は六月十五日の参院
本会議において、「〈A級戦犯〉が合祀されてゐる問題などから、首相や閣僚の公式参拝には問題がある。首相在任中に参拝するつもりはない」と、聞くも浅ましい妄言を吐いた。案の定、北京が素早い反応を示して歓迎、その不参拝に対する「称讃」「期待」の度合は過去歴代首相に比を見ない。
 はたして菅は、〈A級被告〉を偏頗なる
史観に基づき没義道漢視することによつて己が人倫の高邁さ加減を吹聴せんとする腹か。さうであるなら、その倫理観念を他国の没義道一般にも及ぼさずしては辻褄は合ふまい。原爆投下や無差別空襲、北方領土・竹島・尖閣の奪掠と占有宣言、東支那海海底資源の略取、大量拉致、わが国歴史教育への容嘴等々、皆その類ならざるはない。核保有国による世界支配を保証する核拡散防止条約もまた、倫理性欠如の最たる代物だと気づかないか。
 〈A級被告〉を強ひて扱(こ)き下ろす倫理観は、筋道として必ずや諸国家積年の罪悪を論難するであらう。だが国益固守を大眼目とする諸国が聞く耳を持つ理由がない以上、彼我早晩の衝突は免れない。「親中・親韓」ゆゑに衝突を忌避するならば、自己の立論は既に破綻したも同然だ。他国の驕慢一切には目を瞑り、ひとりわが国をのみ悪とする論理は、もはや私利私欲の部類に属し、国立追悼施設の建設も逃げ口上に過ぎなくなる。
 このほど靖國み
たままつりに揮毫雪洞(ぼんぼり)を奉納した台湾元総統李登輝は三年前、初参拝を北京が非難するや、「戦争で亡くなつた人を祭ることは当り前」と反論した。かかる限りなく常識に近い見識と勇気を毫末も具へぬ輩に総理の資格は、毛頭ない!

 

 

 

 

日本歌壇・梓弓歌会合同吟行

 

7月15、16日、日本歌壇と梓弓歌会の有志メンバーが山梨県甲府市黒平(くろべら)の市営「いこいの里 黒平ロッジ」に集合、合同吟行を実施した。

この黒平ロッジは、名勝昇仙峡からさらに北の山中へ分け入つた集落(とはいつても、現在の住人は2軒のみ)にあり、山あり水あり夜は星冴えて環境抜群、テニスコートや屋根付きバーベキュー施設も完備し、その静謐は文武の合宿に最も適する。冬季は道路の凍結や積雪のため、暖かい4月より11月末まで開業。

この部落に入植して「NPO法人黒平少年自然の家」を立ち上げた猪股氏(写真右端)が甲府市からロッジ管理を任されてゐる。

 

 

 

 

驕慢支那の口吻

 防衛省統合幕僚監部は7月4日、海上自衛隊護衛艦が確認したとして、「中国海軍のミサイル駆逐艦とフリゲート艦の計2隻が3日夜、沖縄本島の西南西約170キロの公海を東シナ海から太平洋に向けて航行した」と発表。昨今常態化してゐる中国海軍艦艇の動きはわが国にとつて一段と脅威になつてゐるが、そのありのままの模様を国民に伝達したまでのことであつた。
 しかるに中国政府・国防部の報道担当官は6日、中国艦艇の宮古海峡通過の発表をめぐり、「国際法に合致する正常な航行であり、日本政府がこのことでわざわざ情報を発表する必要はない」などと、あたかも宗主国然たる口吻をもつてわが国を非難した。
 靖国神社参拝や教科書検定についてと軌を一にするかかる横柄な態度は、例によつて親中派ののさばる日本政府を与し易しと見、日米同盟の「浅化」をせせら笑ひ、拡充進む軍事上の優位を意識することからくる驕慢がしからしめた点、否定すべくもない。民主党政権より何らかの反論ないし異論が出たとは、現時点では一向に聞き及ばないのは返す返すも情けなく、腹立たしい。
 ここに、2chから若者の声を拾つてみた。皆たぶんに感情的ではあるが、やりきれなさに地団駄を踏む日本人の素直な物思ひだと感じたからにほかならない。

 

 「発表されると都合が悪いのかよ」
 「シナが嫌がるなら発表し続けろ」
 「何様のつもりだ北京原人如きが」
 「発表するべき理由ならいくらでも出てくるが、発表しなくても良い理由は一つも見つからない。中国人の立場であれば、この逆が当てはまる」
 「日本が善意で通してやつてる津軽海峡とか全部封鎖すんぞ?? お前ら日本海からでれねーんだぞ? ん?」
 「わざわざ、ぢやなくて『いちいち』つて言つてればもつとよかった」
 「やましい事がないなら発表されても何ら問題無いだろ」
 「なら、わざわざ通過するなよ」
 「まるで清艦隊が日本各地の沿岸で示威活動してた頃まで時代が戻つたようだ」
 「発表されたくなかつたら通るなよ」
 「今ごろ民主党の中の人が中国大使館に呼び出されて怒られてるのかな?」
 「偉さうにもほどがあるな。もつと礼儀をわきまへたらどうだシナさん」
 「わざわざ発表するなとかわざわざ発言するな」
 「さすが情報統制の国だな」
 「内政干渉だろ。発表するかどうかはこつちの勝手だ」
 「P-3Cと潜水艦でこれでもかといふくらゐ監視しよう」
 「台湾海峡を通過すれば良かつたアル」
 「海峡の潮流や海底地形データは軍事上重要。それ間違ひなく訓練も兼ねて取つてる」
 「アメリカの艦艇だつて母港が日本でも報道されてるぞ」
 「ご要望にお応へして黙つて沈めてみるのはどうだらうか」

 

 

 

 

東京文武館講義項目(抄)

 東京文武館「文」関係講義項目(抄)―講師・森田忠明


 〇和歌選
 〇漢詩選
 〇日清戦争開戦の詔勅
 〇日清戦争終戦の詔勅
 〇日露戦争開戦の詔勅
 〇日露戦争終戦の詔勅
 〇大東亜戦争開戦の詔勅
 〇大東亜戦争終戦の詔勅
 〇軍人勅諭
 〇明治維新の宸翰

 〇大祓詞

 〇浅見絅齋 靖献遺言

 〇頼山陽  楠氏論賛(日本外史)
 〇頼山陽  重盛の苦衷(日本外史)
 〇頼山陽  宇治川の先登(日本外史)
 〇頼山陽  川中島の戦(日本外史)
 〇頼山陽  桶狭間の戦(日本外史)
 〇佐藤一齋 言志四録
 〇橘曙覧  独楽吟
 〇吉田松陰 士規七則
 〇吉田松陰 松下村塾の記

 〇吉田松陰 留魂録

 〇橋本景岳 啓発録
 〇藤田東湖 正気の歌
 〇西郷隆盛 南洲翁遺訓
 〇西郷隆盛 南洲手抄言志録
 〇斬奸状・蹶起趣意書
 〇明治書院 新精選古典(古事記・徒然草・史記等を含む和漢の詩文)

 

 

 

 

東京文武館稽古風景 2

 

平成22年7月4日、奈良師範は語る「伝統ある陸軍戸山抜刀術を猛稽古することを通じて、特に若き人たちには皇国を護らんとする不動の信念を深めてほしい。換言すれば、それはまさに社稷を郭清するために草莽として崛起する覚悟を持つことにほかならず、この東京文武館をその拠点たらしめたい」

 

 

 

東京文武館稽古風景 1

 

 

平成22年7月4日(日)午後

真剣による迫真の稽古

大東農場武道場(東京都青梅市)にて

この日の参加者 奈良師範ほか7名 見学者2名

森田忠明館長はいふ「貴重な汗を流してすがすがしい。新宿御苑の事務所で催してゐる『文』の学びとともに、いはゆる文武不岐の道に邁進することによつて、一人でも多くの諸君に日本精神の何たるかを会得してほしいと思ふ」

 

 

 

幕末の志士のこころ (3)

 佐久良東雄〉

 

 常陸国の郷士の家に生れたのが文化8年(1811)。9歳から僧籍にあり、良哉と名乗る。万葉集を学んで日本人の魂に触れ、国史古典に精進して時局を嘆いてゐたが、33歳の時、決然として還俗、神道に身を寄せる。その時の穢れを祓ふ禊の行は凄まじく、新しい首出にと鹿島神宮に桜樹千株を植ゑて名を佐久良東雄と改名してゐる。  

 近隣の碩学と交友を深め、水戸藩の藤田東湖らがその学殖を認め仕官を勧めたが、

 

 「京師にまします天孫今上陛下こそ東雄の主人なり」

 

として受けなかつた。それより江戸に出て平田篤胤の門に学び、国学を究める。34歳で京都に上り、大坂坐摩神社の神主となつた。
 万延元年(1860)3月3日に起つた井伊大老襲撃事件の指導者である高橋多一郎が、大坂でも挙兵計画を進めてゐたが、出兵予定だつた薩摩藩が慎重策に転じたため行き詰まり、この計画が幕府側に洩れてしまふ。同月23日、追手がかかつて高橋父子は天王寺で自刃し、彼らを匿つてともに策謀をめぐらしてゐた東雄は幕吏に捕はれの身となる。江戸伝馬町の獄に送られるが、獄中とはいへ徳川の粟を食むのを潔しとせずに絶食、50歳で絶命した。


  まつろはぬ奴ことごと束の間に焼きほろぼさむ天の火もがも


 弘化元年(1844)、江戸城本丸が炎上する大火があつた。東雄の上京の年のことで、彼はすでに純粋な日本人意識をいだいてゐる。ゆゑに天皇を京都に何百年も押し込めてゐる幕府を「まつろはぬ奴」、朝廷に随順しない賤しい輩、と激越に罵るのだ。一首からは、本丸の炎上を喜ぶだけでなく、「幕府に巣くふ連中をことごとく、たちまちのうちに焼き滅ぼす火が天から降つてほしい」と、歯軋りするさまが明瞭に浮かんでこよう。


  朝日かげ豊栄のぼる日の本の大和の国の春のあけぼの


 「朝日が燦燦と輝き昇る天皇国日本。この日出づる国の春の曙の頃といつたら、目にも心にもすがすがしく、何ものにも替へがたい爽やかさを醸し出してゐることだ。わが日本を、名実相伴ふ、さうしたすがすがしい国にしたいものである」といふのである。


  死にかはり生きかはりつつもろともに橿原の御代にかへさざらめや


 橿原の御代といふのは人皇初代神武天皇のご治世。「眼前の腐敗し堕落した幕府を排除して、かつての理想に燃えた建国の昔に返さずにおかれようか。王政復古を目指し、幾たびも生まれ変りながら、同志とともに永久に戦ひ続けねばならぬ」と、じつに激しい覚悟がこもつた歌である。


  一筋に君に仕へて永き世の人の鑑と人は成るべし


 これは一子石雄に宛てて、

 

 「すはや御大事と申時には一命をすてて報い奉るべし、然らざれば吾子孫にあらず」

 

とまで、厳しい言葉を連ねた遺書に見える歌。その意は、「脇目も振らず一心に天皇にお仕へすることで、永世に範を垂れうる人物になること、これこそが、わが子孫の進むべき道であらねばならぬ」。

 遺書は次のやうに締め括られる、

 「此一言さへ心得候へば、餓死候共、生れ来り候甲斐有之候事に候。よくよく味ふべし、感ずべし」  (この稿、をはり)

  

 

 

 

幕末の志士のこころ (2)

 〈吉田松陰〉―下―

 

  かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂


 安政元年(1854)、「下田踏海」に失敗して自首、唐丸籠で江戸へ護送される途中、高輪の泉岳寺を過(よ)ぎつた時の作。赤穂義士が吉良上野介を討つたことと、自分の行動とが、いづれも国法に触れるとはわかつてゐながら、「やむにやまれぬ大和魂」の発露である点で酷似してゐるとの感慨を催して詠んだものだ。


  骨を粉にし身を砕きつつ大君に丹(あか)き心を捧げてしがな


 「天皇陛下(孝明帝)の大御心におこたへするべく、まごころをささげて粉骨砕身したいものだ」と願つてゐる。


  身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂


 安政の大獄により長州から江戸の獄へ送られたあと、いよいよ死の迫つたことを知つて処刑の二日前から書き始めたのが、遺書となる『留魂録』である。この歌は、その冒頭に掲げられた。「この身は、たとへ武蔵の野末にはかなく朽ち果てても、わが大和魂だけは、この世に残しておかう。きつと永遠に生き続けるであらう」。現し身は鴻毛のやうに軽いけれども、魂はいかにも重いといふ思惟をこめた、松陰の辞世の歌だ。
 『留魂録』末尾には、「かきつけ終りて後」の見出しで五首の歌が添へてある。そのうちの二首。


  呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな


 呼び出しは、斬首の刑場へ引いていくために行はれる。思ふことを『留魂録』に綴り終へ、静かに死を待つ心境を吐露したものである。

  討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ


 「幕府に殺されてゆく自分を哀れだと嘆き悲しんでくれる人がゐるとすれば、悲しむよりはむしろ、天皇を尊崇して夷狄を打ち払つてほしい。行動すること、それこそが自分に対する本当の手向けとなるのだから」と念願する歌。
 『留魂録』を書きあげた翌朝、死罪の宣告のあと、刑場に臨んで声高らかに辞世の五言絶句を吟じた。


    辞世
  吾れ今国の為に死す
  死して君親に背かず
  悠悠たり天地の事
  鑑照は明神に在り


 「私は今、国のために死んでゆく。死ぬけれども、藩主や親に決して背きはしない。遠く遙かに広がる天地の間にあるわが国の諸事情をめぐつて憂ひは底知れず深いが、私の志もまごころも、神々がしかと見通してをられると信ずるから、心は大安心の境地にある」
 代々斬首の役目を務めてきた「首斬り浅右衛門」こと山田浅右衛門は、「役目で多数の首を刎ねたが、安政6年10月27日に斬つた武士が最も堂々とし、あつぱれだつた」と、のちのちまで周囲に語つてゐる。 (この稿、をはり)

 

 

 

 

幕末の志士のこころ (1)

 尊王攘夷運動の渦中で非命に斃れた7人の志士を取り上げ、その略伝を記して辞世を含む詩歌を紹介することにする。

 

 〈吉田松陰〉―上―


 天保元年(1830)長門の杉家に生まれた萩の藩士で、名は矩方、通称寅次郎。五歳で山鹿軍学師範である叔父の吉田家へ養嗣子として入り、11歳の時、藩主に山鹿素行の『武教全書』戦法篇を講義した。19歳で正式に家学を継承し、藩校明倫館の教授として出仕。長崎留学、江戸遊学(佐久間象山らに師事)などを通じ、また古今の史書を読破して次第に日本や世界の情勢に明るくなつていく。その考へ方の骨骼は「開国・攘夷」、すなはち野蛮な外国勢力を打ち払つて独立を守るためには、開国して航海や交易に励み、富国強兵に努めなければならぬ、といふものである。構想の実現を願つて二度、ロシア及びアメリカへ密航しようと企てながら果たせなかつた。
 国禁を犯した罪で萩の獄に下り、のち自宅蟄居の身で家学を講ずることを許され、松下村塾の主宰へと発展する。有能な門弟が多く、幕末・明治期の志士・政治家には、この塾より輩出した人物が目立つ。但し、実際に塾を運営したのは三年にも満たぬ短い期間であつた。
 幕府が朝旨に違反して米国と通商条約を結び、これを非難する士に対する熾烈な弾圧政策に出たのを憤り、門弟らと老中間部詮勝の要撃を策した。松陰の過激な言動を恐れた藩当局は再び彼を投獄する。獄中なほ、長州藩を倒幕の先駆たらしめようと伏見要駕策などを推し進めた。失敗に帰してのちは、藩といふ水準の運動ではなく「草莽崛起」、すなはち民間・在野の志士の蹶起こそがよく国を改めうるとの結論に達した。
 しかし、安政6年(1859)7月、江戸へ檻送せよとの幕命が届き、伝馬町の獄に投ぜられた。梅田雲浜との関係を尋問するためだつたが、松陰は進んで時局を論じ、幕府の把握してゐなかつた要撃・要駕計画を自主開陳してしまふ。その至誠が通じないまま、評定所の「遠島」の決定を大老井伊に「死罪」へと変更され、10月27日、斬に処せられた。歳30。
 松陰が短い生涯の間に書き遺した多くの文章や書簡類は全集として公刊されてゐるが、なかでも『講孟余話』は、密航未遂の咎で萩の獄に投ぜられた時、荒廃した獄風を改善する一環として同囚に『孟子』を講義した記録が元になつた著作である。(この稿、次回へつづく)

 

 

 

 

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