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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2010年06月の記事

孝明天皇と幕末 (下)

 弱体化していた幕府は、ペリーの軍事力に屈する形で翌安政元年、下田・箱館を開港し領事の駐在を認めるなどを内容とする日米和親条約を締結しました。次いで英・蘭・露などの諸国とも同様の不平等な条約を結んでしまいます。
 二百数十年にわたって惰眠を貪ってきた幕藩体制の脆弱さでは、世界各地に武力で侵出して植民地化に余念のない欧米列強の侵略には太刀打ちできない、との焦燥が心ある人びとの間に募ってきます。黒船に触発された危機感からくる攘夷思想と、国史を通じて脈々と底流してきた尊王斥覇思想とが結びつき、朝廷を中心とする統一国家構想が次第に有力となります。それが、やがて倒幕運動の巨大なうねりと化すのは時間の問題でした。
 ここにわが国は、激動の時代に入ります。黒船来航から幕府が瓦解して明治維新が達成されるまでの15年間を、一般に幕末と呼びますが、その間、生死を度外視して国事に奔走する幾多の志士が出現しました。志士あるいは草莽といわれる人びとの活動なくしては明治維新を語ることはできませんが、それほど多くの有名無名の士が全国的に活躍しました。
 幕府大老井伊直弼が安政5年(1858)、勅許なきまま日米修好通商条約に調印し、他の列強四ヵ国との間にも次々と条約を結んだため、孝明天皇は不快の念を示され、調印の不許可と譲位の意志を示されました。志士を奮起せしめた、その前後の御製を見ておきましょう。


 あさゆふに民安かれと思ふ身のこころにかかる異国(ことくに)の船
 (朝夕にひたすら民の安泰を祈っているが、それにつけてもわが国に迫る外国の軍艦がいかなる挙に出るか、甚だ心配でならない)


 澄ましえぬ水にわが身は沈むとも濁しはせじなよろづ国民
 (この身が、たとえ濁った水の中に沈むことがあろうとも、多くの国民にだけは、決してそのような辛い思いをさせまいぞ。わが身に代えてでも国の平安を願うのだ)


 戈とりて守れ宮人九重のみはしのさくら風そよぐなり
 (民よ、剣をとって立ち上がれ。心なき風が吹いて御階の下にある左近の桜を無理に散らせてしまいかねないように、今や強欲な外国が日本を日本でなくしてしまおうと虎視眈々と狙っているではないか)   (完)

 

 

 

孝明天皇と幕末 (上)

 江戸時代も後期になると、日本近海には異国船がしばしば出没します。シベリアを征服して18世紀末にはアラスカとカムチャツカ半島に達していたロシアは酷寒のシベリア経営のために、また北太平洋を漁場とする英米などの捕鯨船は寄港地の必要性から、それぞれ日本に薪や水、食料を求めてきたのです。ロシアが樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したり、フランスと戦争状態にあったイギリスが、フランスに味方するオランダの商館や船舶を引き渡せと長崎港に侵入する事件なども発生しています。住民に禁制のキリスト教を布教することもありました。列強の最終的な目的が日本の植民地化にあったことは否定できず、海防の充実が不可欠でした。
 江戸幕府は文政8年(1825)、異国船打払令を布告します。それまで文化3年(1806)の撫恤令で薪水を給与していたのを停止し、沿岸に接近する外国船は見つけ次第、二念なく砲撃して追い返せとの命令です。実際、鹿児島や浦賀で砲撃を加えましたが、英国が清国との間にアヘン戦争を始め、清が敗れたことを知るや、天保13年(1842)、外国船打払令を緩和し、再び必需品を与えて退去させる方針に転換しています。とにかくもわが国は、国際情勢を無視できない厳しい事態に、ようやく直面したわけです。
 欧米列強の重圧が増してゆくこうした時局の中、孝明天皇は弘化3年(1846)に16歳で即位され、慶応2年(1866)に36歳という若さで崩御されるまでの20年間、肝胆を砕いて難局の打開に努められました。
 嘉永6年(1853)6月、提督ペリーの率いる米国東インド艦隊の4隻(蒸気船2隻、帆船2隻)が、大統領フィルモア(この時点での大統領は交代してアース)からの親書を持参して江戸湾の浦賀沖に現われ、開国を要求しました。数十発の空砲を発射して威嚇するなど、その強引な交渉手段に幕府は狼狽ただならず、応対に上を下への大騒ぎとなります。その果て、ペリーは久里浜に上陸して幕府へ親書を渡し、翌年、再び来航してその返事を聴きにくると言い残します。いわゆる黒船の来航です。
 動揺し大混乱に陥った幕府及び江戸市中のさまは、

 

  太平の眠りをさます上喜撰たつた四はいで夜もねられず
 

 誰が詠んだか、この一首の狂歌がみごとに諷刺しています。「上喜撰」は高級茶の銘柄で「蒸気船」に掛けており、その上喜撰をたった四杯飲んだだけで、つまり蒸気船が四隻出現しただけで夜も寝られなくなるとは何とも情けない、というものです。
 この時、幕府に対して「白旗」を贈ったペリーの意図は明らかです。幕閣から意見を求められた水戸の前藩主徳川斉昭は状況を的確に把握していたというべきでしょう。「米艦隊は、鎖国の禁制を知りながら来航した。戦争になるのを承知で、わが国に白旗を渡して通商を要求している。しかも無断で領海の測量も行なった。その驕傲無礼は言語道断であり、わが国は開闢以来の国恥に遭遇したのだ」と。(続)

 

 

 

北条時宗と元寇 (下)

 朝廷では、亀山上皇が伊勢神宮に対し、御身をもって国難に代わりたいとの祈りをささげられ、また、御みずから石清水八幡宮に参られ、徹宵して異国の降伏をご祈願なさっています。諸社諸寺にも同様の祈願をお命じになりました。
 亀山上皇には次のような御歌があります。
 

 命にもかへばやとおもふ心をば知らでや花のやすく散るらむ
 (差し迫った国難を打開するために、この命をもささげたいと思うわが心を、花々は知ってか知らずしてか、自然のめぐりのままに、咲いてははかなく散ってゆくことである)
 

 世のために身をば惜しまぬ心ともあらぶる神は照し見るらむ
 (私は、国の危機を払いのけられるなら、この一身がどうなろうと顧みるまいと一大決心をしている。この曇りない、一筋に思いつめた心を、暴悪の限りを尽くすといわれる荒ぶる神でさえ理解し、助力を与えてくれるであろう)
 

 この弘安の役の際には、海岸線には蜿蜒と堅固な水城が築かれており、防海の将士たちは波打際での撃退に善戦健闘して元軍をほとんど上陸させません。敵は船を連ねて海上に浮かんでいるばかりでしたが、7月の一夜、これもたまたま暴風雨が起こって敵船はことごとく沈没し、敵兵は片っ端から海の藻屑と消え去りました。ようやく生き残って島々に上陸していた敵には、わが軍が殺到して撃破します。元軍のうち、生還したのはわずかに3人だったといわれています。
 こうして蒙古の襲来は撃退され、国難は去りました。二度の暴風雨の発生が勝利を占めた大きな要因ではありますが、日本側が頑強に、また勇敢に抵抗を続けて敵を海上におらしめたからこそ、暴風雨が神風といわれるものになったのです。「人事を尽くして天命を待つ」というより、一層日本的といえる「神のご加護を熱く祈って最大限の人事を尽くした」ところに勝機が芽生えたのでした。
 その翌年春、亀山上皇は、外敵の脅威がなくなった安堵のお気持ちから詠まれています。

 

  四方の海波をさまりてのどかなる我が日の本に春はきにけり


 時宗はといえば、元寇という大国難に対処するために心身をすりへらしたのでしょう、弘安の役の3年後、34歳の短い生涯を終えました。(完)
 

 

 

 

北条時宗と元寇 (上)

 ジンギス汗から、その孫で元朝を建てたフビライに至る間に、蒙古は猛然たる外征軍を興して欧・亜両大陸の大半を取り、東は朝鮮、南はインドシナからジャワ、西は東欧一帯にまたがる大帝国を築いていました。
 北条時宗が鎌倉幕府の第八代執権職にあった時のことです。フビライは日本を属国にしようとして何度も国書をもたらしました。
  服せずんば則ち兵を用いん。
 「服属しないのなら、武力で攻め入るぞ」との無礼きわまる脅しです。十八歳の時宗は朝廷と相談の上、返書を出しませんでした。
 後宇多天皇の御代の文永11年(1274)10月、蒙古の兵15000、朝鮮の高麗の兵8000、もろもろ合わせて約30000の軍勢が軍船900艘に分乗し、対馬や壱岐を攻めて島民を殺戮し、筑前の博多に上陸してきます。そして民家を焼き、良民を殺し財産を奪うなど暴戻の限りを尽くしましたが、わが軍もよく戦いました。反撃の凄まじい勢いに、敵は陸上にとどまることを不安に思い船に戻ったのですが、その夜、大風雨が起こって軍船はたちまち破損、沈没し、溺死する者13500人を数え、生き残った蒙古軍はすべて逃れ去りました。これが文永の役です。
 国号を元と改めた文永の役の翌年、さらにその4年後と、またしても使者がやってきて傲慢にも降伏を勧めましたが、時宗は二度とも彼らを斬り、断固たる決戦の決意を示します。全国の将兵を励まし、挙国一致、防衛の策を講じました。京都の御所の警備を厚くし、九州北部から山陰、山陽にかけて海防を厳しくしています。
 文永の役から7年目の弘安4年(1281)5月、元は再び、朝鮮と揚子江方面の、北と南の二手から大挙して攻めてきました。兵数約14万、軍船4400艘もの元軍が、対馬を占領し壱岐を侵し、九州の北部海上に押し寄せてきたのです。これに対する日本軍は、京都守備軍6万、博多守備軍4万、長門守備軍2万、合計およそ12万でした。敵はまたも博多上陸を企図します。

 

 

 

一旦緩急あれば

 一旦緩急があり、国民こぞって義勇公に奉じなければならぬ時とは、いったいどういう事態が予想されるでしょうか。四項目にまとめてみました。
 外国が日本を武力で侵略してきたり、悪意をもって挑戦し国益を損おうとしたり、また国体を凌辱しようとする時。元寇や日清、日露の両役、大東亜戦争などがそれにあたります。このような場合には、敢然と矛を取って立ち上がらねばなりません。
 外国が攻めてくる時だけが国家の危機ではありません。歴史を振り返ると、楠木正成が足利高氏と戦ったように、内乱がしばしば起こっています。国体を革命しようとする国内の武装集団がいるとすれば、一身を犠牲にしてでも正しい道のために奮闘しなければならないのです。
 国に背く逆臣が出現して大義名分を乱そうとする時にも、一身の栄辱を忘れて奮起し、正道を明らかにしなければなりません。皇位をうかがった弓削道鏡や足利義満は逆臣の最たるものでした。明治維新の際、多くの勤王の志士が日本国の正道を現わすため、あらゆる艱苦を嘗め尽くして献身的な働きをしています。
 大地震や大火、津波、列車転覆、タンカーの座礁による油流出など、災害や事故で国民の生活が崩壊したり危機に直面したりした時も、一旦緩急に相当します。国連平和維持活動(PKO)その他で外国へ出向くこともあるのですから、国内における大天災等で同胞が苦しんでいる時にあたり、ボランティアを含む諸活動に懸命に取り組むのは、むしろ国民の義務といえるのではないでしょうか。
 以上すべての項目に共通するのは、一朝有事の際に、祖国のために尽くす愛国心の発露だということです。この愛国心は、国体への一層の洞察とともに深まってゆくものです。
 

 

 

 

鳴霞さんの出版を祝う会

      ― 開催のご案内―

 

拝呈 新緑の候 貴台には不断の御恪勤、お慶び申し上げます。
陳者 在日歴30年近い
中国出身の満洲人鳴霞さんが本年4月、「平和ボケ日本人」への警告の書、『中国人民解放軍の正体』を上梓されました(日新報道刊、四六版284頁)。鳴霞さんは中国共産党のエリートでしたが、来日後、「月刊中国」主幹として中国内部情報を分析、その対日侵略意図に関する緊急警告を発信中です。このたびの新刊は、軍拡に余念なき人民解放軍の内幕を暴露、わが国にとっての脅威を詳述しておられ、日本人の必読の書と確信致します。
就きましては、女史のご努力に敬意を表し、併せて彼女を激励する出版記念会を左記の通り企画致しました。ご多用中恐縮とは存じますが、貴台には何卒ご来駕の栄を賜りますよう、茲に謹んでご案内申し上げます。 敬白
 
 [鳴霞女史略歴]
昭和32年
中国遼寧省瀋陽生れ。高卒後下放。55年瀋陽市科技日本語学院入学。57年来日。京都日本語学校卒業。中国語学校で講師を務め、平成年から「月刊中国」主幹。この間、米豪瑞等で開催の国際会議に出席。元近畿福祉大学中国語科講師。著書に『苦悩の中国』 (文芸社)あり。
 
       記


  期日 平成22年6月26日(土)午後1時~4時
  会場 靖國會館二階 偕行の間(靖國神社境内)
  会費 7000円(著書贈呈)
      ※当日昇殿参拝を致します。参拝される方は正午までに靖國神社参集殿へ 
       お越し下さい。玉串料お1人500円。
      ※準備の都合上、ご出席下さる方のみ、ファックスまたはメールにてその旨、
       6月20日迄にご連絡下さい。
 
平成22年6月吉日
 
 【呼掛け人】
  代表 佐藤守
     阿羅健一  伊藤哲夫  イリハム・マハムティ  魚谷哲央
     遠藤留治  岡本幸治  加藤秀郷  川村純彦  木村三浩
     金鐘(香港)  楠林正將  呉弘達(
米国) 黄文雄   四宮正貴
     秦進(
豪州)  高井三郎  高澤一基  田母神俊雄 津村忠臣
     天童竺丸  頭山興助  土橋長樹  中村粲   永山英樹
     西村眞悟  原田強士  武宜三(香港) 藤本隆之  ペマ・ギャルポ
     水島総   水間政憲  南丘喜八郎 宮崎正弘  村上学
     森田忠明  山田恵久  山本善心  山本徳造  柚原正敬
     吉村伊平
 
                事務局 〒160ー0022二
                   東京都新宿区新宿1ー7ー10ー601
                   電話&FAX 0551ー28ー4222
                   メール 
nippon@plum.plala.or.jp
                   緊急電話 090ー8580ー0030(森田)

 

 

 

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