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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2010年05月の記事

蜂の眼 (下)

夏されば如雨露(じようろ)うちやり水ホースいぢる男に汗ひかる見ゆ

 

 

あはれやな蜂の眼を惹く花もなきこぞおそ夏の庭荒れにしを

 

 

意趣返しなさむ折しも學び舎のチャイム鳴りそめ氣そがれにけり

 

 

畑より戻りしものか長靴の泥おとす見ればなにやらゆかし

 

 

わが城をつぶさで雪とたはぶるる氣振(けぶ)らひありきしきり思ほゆ

 

 

にんげんがしば吐く共棲まことにやわれら日にけに侃諤をなす
 

 

 

 

蜂の眼 (上)

  わが家に巢作る蜂に代りて詠める

麥わら帽眼鏡をとこが心していづるさ庭にひかり隈なし
 

 

飛ぶわれをよりより見あげ足ばやに歩み進めり影も添ひゆく


 

身をかがめ水の噐に水入るる音のひびかふ庭ひろみかも


 

ゆくりなく入りし書齋にはらからの去年(こぞ)殺されし恨み消(け)なくに


 

蜜を吸ふわがためならし赤しろの草花うゑし子らはしをらし


 

隙あらば襲ふ身がまへゆるぎなし花に水やるしぐさ瞰(み)おろす
 

 

 

 

 

みくにの瀬戸

迹(あと)さまで見ずて時へぬ暜天間にさわぐそのまの國まもるわざ


 

半島の危機説く口も思ひ入れすぐれば支那の暴いはずけり


 

大臣と言はるべしやはまつりごと夷戎(えみし)に媚ぶる心になさば


 

差し迫るみくにの瀬戸を切りぬけむ淺智慧すらや漏り聞くぞなき


 

わざはひを生みてのごはぬ政柄の自民民主とつづく疎まる
 

 

 

 

風前のともしび

わりなくも夷(えびす)ふるまふ友愛をとなふる國の立ち処(ど)みすかし


 

暜天間に郵政仕分けにうつつなきひま衝く仇のいちねん強(こは)し


 

海洋の覇權をめざしむずむずと寄せ來るえびす摧(くだ)くすべもが


 

平和的解決といふすずろなる夢路にまどふかなしげの世や


 

波かぜを立てぬにわれと腰折りて仇おもひやる逆しまの世や


 

風前のともしびに似る尖閣のさだめは同じ國のゆくすゑ
 

 

 

息あらき宼(あた)ひるまする磐石の抑止に心もちゐざらめや

 

 

 

浅見絅斎の「赤心報国」

 山崎闇斎に学び、京都の私塾錦陌(きんぱく)講堂で教えた浅見絅斎(けいさい)は「砥行(しこう)植節」の儒学者でした。彼は困苦のうちにあっても屈せず学問への情熱に燃えたこと伊藤仁斎と同様で、しかも、
 「人と為り慷慨にして、毎(つね)に新たに質(し)を列侯に委ぬるを以て潔しと為さず。故に貧甚しと雖も敢えて祿仕せず」
 ほしいままに政柄を執る徳川幕府の不義不正を憤慨するゆえに幕藩体制下の諸侯の招聘を断り、生活を安定させるに違いない仕官の道を選ばなかったのです。
 「絅斎、兼ねて武事を好み、常に馬に騎り剣を撃つ。其の帯ぶる所の剣鐔(けんたん。刀のつば)、観瀾の篆(てん)する赤心報国の四字を鐫(ほ)る」
 この「赤心報国」の四文字は、実際には鍔(つば)にではなく、刃にかけてはめ込み刀身が抜けないように締めておく金具である鎺(はばき)に彫られていたようですが、「あえて祿仕しない」という信念の上からも、
  門人三宅観瀾、出でて水府に仕う。以為(おも)えらく、其の志、道を行うに非ずと。即ち書を贈りて之れを絶つ」
 四文字を彫ってくれた弟子が、徳川光圀との関係で水戸の彰考館に奉職するのさえ節操のない振る舞いだと見なし、絶交を申し渡すほどの厳格さ、そして天朝の民としての誇りがありました。
 絅斎の主著『靖献遺言』は幕末の志士に愛読され、回天の事業に決定的な影響を与えました。それは中国の屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺の八人を取り上げ、ほとんど非業の最期を遂げている彼らが、それぞれの属した王朝に「緩急」があった時、いかに道義を貫いて生きたかの事実を述べたものです。幕府の譴責をかわすために日本の忠臣義士ではなく漢土の士を選んだのでしたが、異国人とはいいながら八人の遺した忠烈の言葉が幕末の志士らを触発し、奮起させたのです。
 当時から幕府は危険書と睨んでおり、本書上梓の真意について史書も、
 「浅見安正ハ、関東ノ地ヲフマズ、諸侯ニ仕エズト誓エリ。モシ時ヲ得バ義兵ヲアゲテ、王室ヲ佐(たす)クベシト云(いい)テ、靖献遺言ヲ作リシナリ」
と解説しているほどです。
 前項の山崎闇斎のところで述べた通り、隣国を絶賛して本国を軽しとなす、あたかも現今の世相に酷似する卑屈な姿勢が根強く広まっていました。このような時代に絅斎は、幕府を倒す意図もこめて『靖献遺言』を著わしたというのですから、その覚悟のほどがうかがわれる内容となっているのです。
 絅斎は祖国日本を位置づけて、
 「我が生れた国ほど大事の中国がどこにあろうぞ。国は小さくと何が違(たが)おうと、同じ日月を唐人の指図を受けもせずに戴いている国」
 果敢にもこのように断言し、忠誠たるべき日本人の道を指し示したのでした。仕官せずに貧窮であることが苦痛うんぬんの次元など、すでに滑稽と見えるまで遙かに超えてしまっているのがわかるでしょう。
 絅斎の門人に、のち自分の学塾を望楠軒と称し、ひたすら大楠公を慕った若林強斎という人がいます。明らかに、臣子の目標を楠木正成に置いたのでした。幕末、井伊大老の弾圧に遭った梅田雲浜は、絅斎・強斎の学問上の系譜を引いています。

 

 

 

無垢清浄――橘曙覧 (3)

 さて、「赤心報国」と題する一連には力強いものがあります。
  真荒男(ますらを)が朝廷(みかど)思ひの忠実心(まめごころ)眼を血に染めて焼刃見澄ます
  国を思ひ寝られざる夜の霜の色月さす窓に見る剣かな
  国汚す奴あらばと太刀抜きて仇にもあらぬ壁に物いふ
 歌人としての真骨頂を示す歌もあります。
  歌よみて遊ぶ外なし吾はただ天(あめ)にありとも地(つち)にありとも
  幽世(かくりよ)に入るとも吾は現世(うつしよ)に在るとひとしく歌をよむのみ
 男児三人への遺訓、「うそいうな」「ものほしがるな」「からだだわるな」を記して明治元年(一八六八)、正しくは改元十日前の慶応四年八月二十八日、五十七歳の生涯を終えた曙覧に、「たのしみは」から始まる「独楽吟」と題する五十二首があります。十首ほど挙げておきましょう。
  たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時
  たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出でありく時
  たのしみは門売りありく魚買ひて烹る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時
  たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時
  たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来たりて銭くれし時
  たのしみはとぼしきままに人集め酒飲め物を食へといふ時
  たのしみは客人(まれびと)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時
  たのしみはいやなる人の来たりしが長くもをらでかへりけるとき
  たのしみはほしかりし物銭ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき
  たのしみは戎夷(えびす)よろこぶ世の中に皇国(みくに)わすれぬ人を見るとき
 これらすべてに、「貧しくして道を楽しむ」の境地が彷彿します。
  彼の心や無垢清浄、彼の歌や玲瓏透徹。
と曙覧を評し、「彼は歌人として実朝以後ただ一人なり」と賛嘆したのは明治の人、正岡子規でした。(完)

 

 

 

 

無垢清浄――橘曙覧 (2)

 三十七歳で門弟たちが建ててくれた新居に移りますが、貧窮の境遇にありながら学問に励精します。その曙覧を越前の前藩主松平春嶽が俄かに訪ねたのは元治二年(一八六五)二月、曙覧五十四歳の春のこと。その様子がおもしろく、次のようでした。
 春嶽の和文による手記「橘曙覧の家にいたる詞」には、壁は落ちかかり障子は破れ、畳は切れ、雨も漏るばかりだが、机上には書物がうずたかく載せてあって、あやしげな厨子に柿本人麻呂の像が飾られていたりもし、家のなかの汚いことは譬えようもなく、虱でも這い出てくるのではないかと思われた、とあります。
 しかしながら春嶽は、
 「かたちはかく貧しくみゆれど、其の心のみやびこそ、いといとしたわし(慕わし)けれ。おのれ(春嶽自身)は富貴の身にして大廈高堂に居て何ひとつたらざることなけれど、むね(棟)に万巻のたくわえなく、心は寒く貧しくして、曙覧におとる事更に言をまたねば、おのずからうしろめたくて顔あからむ心地せられぬ」
 これからは曙覧の歌のみならず、その心の雅をも慕い学びたい、と願うのです。曙覧が屋号を春嶽の勧めのままに「わら屋」(藁屋)から「忍ぶの屋」(志濃夫廼舎)へ改めたのもこの時のことです。出仕も勧められながら辞退しましたが、二人には心の交流が始まるのでした。
  曙覧は意気すこぶる軒昂でした。
  よき人とほめられむよりは今の世は物狂ひとぞ人の云はなむ
 一身の利害を忘れて熱血を国に注ごうとしたまごころ、時代が時代だけに、世人には物狂いの徒と映ったことでしょう。そして曙覧自身も、そう見られるほうをよしとしたのです。
  春雨のもるにまかせてすむ家は壁うがたるるおそれげもなし
 赤貧だから泥棒の侵入する心配もない、というのです。けれど肉親への思いはまた別でした。二歳にして母を喪い、十五歳にして父が没しています。
 父の十七年忌に、
  髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし
 母の三十七年忌には、
  はふ児にてわかれまつりし身のうさは面だに母を知らぬなりけり
 四歳になる女児の夭折に際しては、
  きのふまで吾が衣手にとりすがり父よ父よといひてしものを
 しみじみと父母を慕い、わが子を悼んで深い嘆きに沈んだのでした。(続)
 

 

 

 

無垢清浄――橘曙覧 (1)

 今上陛下のご訪米は平成六年(一九九四)六月。時の大統領クリントン氏が歓迎のスピーチで、
  たのしみは朝起きいでてきのふまでなかりし花の咲けるみるとき
 日本は、文字少なき短歌によってすら、このように心の機微を繊細に表現する文人もいた素晴らしい国ですね、とばかり、幕末期の勤王歌人橘曙覧(たちばなの あけみ)の歌を引用しました。ために皮肉ながら、曙覧の名は一躍日本人の間に知れ渡るということがありました。
 わが国の場合、戦後、論壇の偏頗な精神的風潮下、尊皇の立場を貫いた人は評価なきに等しく、またその恋闕の歌も故意に黙殺されてきました。もちろん冒頭のごとき曙覧の他の歌はしばしば引用されますが、ひとすじに国を思う志の歌は一切紹介されないのが現状なのです。たとえば、曙覧がいくら清貧に生きたと強調されても、これでは全体像はとても伝わってはこないでしょう。
 だから一般の読者は以下のごとき曙覧の歌に接し、まさかと瞠目するのです。
  天皇に身もたな知らず真心をつくしまつれる吾が国の道
 詠史のうち楠正成に材をとっては、
  一日(ひとひ)生きば一日こころを大皇(おほきみ)の御ために尽くす吾が家のかぜ
  湊川御墓の文字は知らぬ子も膝折りふせて嗚呼といふめり
 「吾が家のかぜ」は伝統的な家風をいい、ここでは七生報国の精神を指しています。「文字」とは、かの水戸光圀の建碑になる「嗚呼忠臣楠子之墓」のこと。感激・感嘆の心で碑に相対するだろうというのです。
  正宗の太刀の刃よりも国のためするどき筆の鉾揮ひみむ
 ここに、彼の確固たる勤王の志は明らかでしょう。勤王歌人と称されてきたゆえんです。
 曙覧は文化九年(一八一二)、越前の裕福な紙商の家に生まれましたが、家業という俗事に没頭するよりは、熱く文学に志しました。二十八歳にして、
 「遂に意を決して祖先相伝の家業財産を挙げて弟宣(異母弟)に譲り、飄然として城南の足羽山(あすはやま)に退去し、専ら文学に従事す」
 若年より京都に出かけては頼山陽の、またのちには本居宣長の門流につながって国史や和歌、漢学、国学に励み、江戸にも遊んでいます。外国船も出没し、時あたかも幕末の動乱期にさしかかろうとする頃でした。(続)
 

 

 

 

獨適賦 その13

あるときはうづめ置きたる菊芋の莖したたかに伸びて濃(こ)みどり

 

あるときはみやこのみ酒(き)の過ぐればか歸(かへ)さの汽車に朝(あした)まどろむ
 

あるときは道の空路(そらぢ)のたかむらの葉の鳴るなへに敎鞭を採る

 

 

獨適賦 その12

あるときは友が詠みでし調べよき歌をこよなく愛でて読みつぐ

 

あるときは光かがよふ靑山に醉はしめ走る特急あづさ

 

あるときは苗さは植ゑし菜園に野風をつよみ鼻にがめ立つ
 

 

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