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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2010年02月の記事

三万石を棄てた城主

 関ヶ原の戦ひの時、江戸城西の丸の御留守を務めた天野康景は戦後、家康から駿河国の興国寺城主に任ぜられ、三万石の俸禄を得てゐた。
 慶長十二年(一六〇七)のこと、居室を造らうとして領内から切り出した竹を貯へておいたところへ、一夜、盗賊が襲つて盗み去つた。番兵の足軽三人がそれに気づいて盗賊を追ひかけ、うち一人を斬り殺す。他の二人は逃げてしまつたが、賊は天領の住人だつた。
 天領の代官井出甚之助は、下役を遣はして康景を責めさせた。
 「我らに断りもなく公民を殺すことは、許されぬ。速やかに番兵を処刑し、公民を殺した罪の償ひをされよ」
 康景は納得せずに言ひ返す。
 「盗賊を殺すのは古来の定法である。どうしても番兵を処刑しようとするのならば、この康景を処刑せよ」
 井出は、要求が通らないと見て幕府に訴へ出た。
 当時、幕府で機転や才智を働かせて政務を取り仕切つてゐた本多正純が、直接康景のもとへやつてきて忠告する。
 「幕府の裁定がひとたび下つたからには、途中でやめるわけにはゆかぬ。さうでなければお上の御威光が立たないではないか。ここは三人の番兵に籤を引かせて当つた一人を処刑すれば、お上の仰せを承知したこととならう」
 「お上の御威光が立たぬといはれるのであれば、お受け致しませう」
 康景はかう答へはしたが、あとでじつくり考へた。
 「賤しい足軽とて、わが家臣だ。家の安泰をはかるために罪なき者を処刑することなど、男子の恥とするところである。直きを捨てて理を曲げるよりは、この際、わが身に罪を受けて潔く亡びよう」
 かくして、一人の無罪の者を殺すかはりに、三万石もの禄を放り投げて、子息康家とともに出奔したのである。彼はこの時、七十代になつてゐた。

 新井白石は『藩翰譜』に、次のやうに評してゐる。
 「公的の政を阻害せず、また私的の恩愛を粗末には扱はない。一人の罪なき家臣を殺しはしないと万石の禄を捨てることを物の数ともしないで、ひとりその志を行ひ、その義を貫いた。この世にはまたとない賢人である」
 天野康景ほどの慎み深く自己に忠実かつ清潔な人は、歴史の中にさう多くは発見できないであらう。

 

 

 

 

辞世―死に臨んでいかに歌はれたか

 病の床にあつた曾子が見舞にきた孟敬子なる人物に苦しい息をしながら語り出す(『論語』泰伯第八)。
 「鳥の将に死なんとするや、其の鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、其の言ふこと善し」
 曾子は、当時人口に膾炙してゐたであらうこの諺を持ち出し、ついで、自分が死にちかいからこそ、どうしても尊重してもらひたいことを三箇条で示してゐる。
 その内容はさりながら、右の条に則せば、臨終における声や言葉は、生命の集中の瞬間に吐かれるゆゑに純粋であり、鳥にあつては最もかなしく、人間においては最もすぐれてゐる。死といふ極限の状況下で日本人は、ならば、いかやうの思ひを三十一文字に託したであらうか。
 悲劇の英雄とされる倭建命(日本武尊)の物語。御子倭建命の猛く荒き心を恐れられた景行天皇の、「西の方に熊曾建二人あり。これ伏はず、礼無き人どもなり。かれその人どもを取れ」、また「東の方十二道の荒ぶる神、また伏はぬ人どもを言向け和平せ」との詔のまにま、命は西に東に平定に明け暮れたのに疎まれ、大和へ帰ることを許されない。伊吹山での戦ひに傷ついた身を三重県の能煩能まで引きずり、望郷の念やみがたく「国思歌」を歌ひ、御病にはかに重くなつて最期に、


  嬢子の床の辺に吾が置きしつるぎの太刀その太刀はや


 ゆだねてきた剣に託し、尾張の愛する姫への追憶をもらされた。
 「有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」が万葉集にみえる。斉明天皇の四年(六五八)秋、孝徳天皇の御子有間皇子は蘇我赤兄に欺かれ、謀叛の罪で捕へられて行幸先の紀伊へ送られる途中、磐代海岸を通過のさい詠まれた。


  磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む


 かかる身の上で磐代の地までやつてきた。生きて帰れようとは思はないが、旅の無事を祈る風習どほり松の枝と枝を結びあはせて行くのである、と。
 中大兄皇子の訊問の結果、十九歳の皇子は、帰路ふたたび松が枝をかへり見ることなく絞に処せられた。もう一首は、


  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
 

 家にゐたなら笥(銀器)に盛る飯を、いま旅の身である私は椎の葉に盛ることだ。言葉づかひは単純でありながら、複雑痛切な運命の旅がまざまざと彷彿してこよう。
 天武天皇の御子で文武に秀でられた大津皇子もまた非命に斃れたお一人。朱鳥元年(六八六)、天武天皇崩御後の政争に巻き込まれ、二十四歳にして死を賜つた。

 

  百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ


 「百伝ふ」は枕詞で、百に伝ひゆく五十に掛かかつて無限に続く意を提示し、磐余に掛かる。磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は死ぬのであるか。生の実感を鴨を「見る」一点に絞つて死に臨む心境を詠じられたのである。


  返らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞ留むる
 

 九州より攻め上つてくる足利高氏の大軍に立ち向かふ父正成から桜井駅で遺訓を受けた楠正行、その後十余年、堅く父の教へを守つて兵を練りつつ忠勤に励んだ。政権を握つた賊軍いよいよ勢ひを増し、大兵を率ゐて攻めかからうとしたとき、正行心に決するところあり、弟正時をはじめ一族郎党を引き具して吉野の行宮に後村上天皇に拝謁、さらに先帝後醍醐天皇の御陵に参拝し、如意輪堂の壁板に過去帳代りにおのおのの名を書きつらねたあと、正行はこの辞世を記してその日のうちに出陣した。時に正平二年(一三四七)十二月のこと。
 場面は、かの「四条畷」の歌にいふ「吉野を出でてうち向ふ 飯盛山のまつかぜに なびくは雲か白旗か ひびくは敵の鬨の声」へと移る。さうして衆寡敵せず、「今はやみなんこの野辺に 捨つる命は君のため なき数に入る名をとどめ いでや誉を世にのこせ」、二十三歳の正行を長とする楠勢はつひに、「枕ならべてもろともに 一族郎党ことごとく 消えし草葉の露の玉 光は千代をてらすなり」。
 江戸前期、下総佐倉領に木内宗吾なる名主がゐた。幼い藩主堀田正信のとき、幼君をよいことに奸臣横行して藩政を乱し、領民を虐げて餓死線上に追ひたてた。三百八十九箇村の総代として起つた宗吾は承応三年(一六五四)十二月江戸に出て将軍に直訴、虐政に喘ぐ民は救つたものの直訴の罪軽からず、夫婦は磔刑、三児は斬首に遭つた。刑に臨んで宗吾が、


  梅散りて梢を蓮のうてなかな
 

 辞世を口ずさむと、妻が応じた、


  今日もろともに消ゆる淡雪
 

 と。宗吾の義人ぶりは、「佐倉惣五郎」の名で歌舞伎でも演じられてきた。
 元禄十四年(一七〇一)三月、江戸城松の廊下で吉良上野介へ刃傷におよんだ浅野内匠頭の辞世、


  風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん
 

 風にさそはれて散りゆく花も名残惜しいにはちがひないが、それよりもなほ春を名残惜しく思ふこの身、私はいつたいどうしたらいいだらうか。無念ここに極まるていの表現に、内匠頭の心中は十二分に推し量りえよう。ちなみに赤穂義士たちの辞世、


  あら楽や思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

                             大石内蔵助良雄
 

  わすれぬや百にあまれる年をへて仕へし世々の君が情を

                             小野寺十内秀和
 

  梓弓はる近ければ小手の上の雪をも花のふぶきとも見む

                             神崎与五郎則休
 

 幕末勤王の志士平野次郎国臣は、「わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙は薄し桜島山」「大内の山のみ釜木樵りてだに仕へまほしき大君の辺に」など、多く高名な歌を遺してゐる。その国臣は文久三年(一八六三)、大和の天忠組挙兵に応じ、但馬生野銀山に討幕の兵を挙げたが事ならずして捕へられた。翌元治元年禁門の変にあたり、幕府が脱獄を恐れて禁獄中の志士たちを処刑したなかに国臣もゐたのである。刑に就くにさいし従容自若、北に向かひ拍手再拝して朝廷に永訣を告げた三十九歳の志士は、


  見よや人あらしの庭のもみぢばはいづれ一葉もちらずやはある


 と詠んだ。このとき賦した詩に、「憂国十年 東駆西馳 成否天に任せ 魂魄地に帰る」とある。心身を天朝に捧げ尽した生涯であつた。

 

 

 

 

沖縄遺骨収集

  南部荒崎海岸にて 平成二十二年二月二十一日
 

 

ひめゆりの学徒おちゆき荒崎に自害せざるは弾(たま)うけしとぞ
 

 

眼を皿になせる百(もも)たり樹樹くぐりみ骨を得むと地(つち)掻きすすむ
 

 

潮騒のひびかふなへに乙女らの遺骨這ひ覓(ま)ぐ汗を垂れつつ
 

 

隆起せる珊瑚礁に立つ手弱女(たをやめ)がひそむ間もなく果てし岩場に
 

 

寄する波しぶくかなたの緑なす摩文仁(まぶに)の丘び昼しづかなり
 

 

ゆふつかた二体をさめて香たむく戦の島のかなしびぞ沁む 

 

 

 

旅順

突貫のこゑきこゆがに堡塁に弾痕しるし東鶏冠山は
 

二将軍ここに会ひしか薄ぐらき土間の机に手触れゐにけり
 

登りきて心たかぶる手向けとて神酒そそぐ碑にみ雪ひそむ
 

旅順港を指呼と見るまに風すさぶ爾霊山頂雪ふりしきる
 

遼東に薄日うごきぬかの山も兵らかたまり攀ぢりゆきけむ
 

堡塁を衝く兵(つはもの)のおらぶがに吹雪く睦月の山に人なし

 

 

 

嘯風雑記 2

■客臘某日、ある会合での雑談時、「電話の最中、よく勃発しがちの彼我一時に発する言葉がぶつかつた場合、いつたいどうするか」を諸兄姉に質問してみた。さすがに満座聞き耳を立てるなかでの回答ゆゑ、発語の衝突に気づいてゐながら自分の話をつづけるといふ御仁は皆無、すぐ譲つて先方の言に耳を傾けると洩らす模範ばかり。搗ち合ふのは電話に限らず平素の会話でもしばしば体験する。よほどの鈍感ならいざ知らず、ふつう同時開口には双方が感づくもの。なのに謙譲の美徳もお構ひなしに自説開陳を続行する人には辟易し疲労感甚だしい、と異口同音。質問者はみづからの感想ないし方途を晒す必要あり曰く、「一通話で度重なる無礼者には、一度は注意喚起のために開口しつづける」と。ゆゑに両者、互ひの会話を一句だに聴かぬ数十秒の時が流れるわけである。どちらさんもまことに、まことにご苦労さま。
 

■橘曙覧作、たのしみはいやなる人の来たりしが長くもをらでかへりけるとき。酒席の座興に、個個にとつてこの「いやなる人」とはそもいかやうの人間か、を問ふことがある。逆に同様曙覧作、たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき、といふ時の「心をおかぬ友どち」をいかに見立てるかとも。これらはたいてい相場が決つてをり、口数が多い、横柄、冷やか、さもしい、不潔などが前者。従つて後者はおのづから前者の正反対の概念に括られる人物といふことに。


■酒関連。散会まで微醺を帯びた様相で悠悠たる振舞ひの人が好まれ、頑なな論議展開を事としたり度外れた皮肉を駆使する者は顰蹙を買ふ。ちと妙なのは、酩酊後随意の睡眠をとる人は支持が低いこと。そりやさうだらう、二人で飲つてゐるさい眠られては手持ち無沙汰でいけない。

 

 

 

 

風簷文庫

風簷(ふうえん)文庫は、わが玉鉾書院機関誌「布衣の風」の読者を中心に、日本歌壇や東京文武館、国民行動その他の関係者のうち希望する人びとが下記規約のもと、ただ「その本を読む」のが最大不可欠唯一の義務、に賛同して同人となつてゐる、さながら無形の読書倶楽部です。

選定図書は、市販で比較的手に入れやすいものを選ぶことにしてゐます。

本ブログ読者諸賢のご参加を期待致します。

 

 

 

  風簷文庫規約


★事務局は毎月一冊、文庫ないし新書を選定すべし


★選定図書は「布衣の風」「日本歌壇」誌上にて発表すべし
 

★同人は毎月所定の図書を読むべし
 

★既読の者は不読再読、本人意志に委ぬべし
 

★同人同士同席の機あるにおいては、読後感を以てする挨拶あるべし
 

★脱入は自由たるべし
 

★会費は無料たるべし
 

 

 

  選定図書(平成二十二年)


一月 『義経』 宮尾登美子 新潮文庫
 

二月 『日本語 表と裏』 森本哲郎 新潮文庫
 

三月 『楽しく使える故事熟語』 石川忠久監修 文春文庫
 

四月 『親鸞』  倉田百三 角川文庫
 

五月 『壊れる日本人』 柳田邦男 新潮文庫
 

六月 『新装版 赤穂義士』 海音寺潮五郎 講談社文庫

 

 

 

 

嘯風雑記 1

■昨年より新たなる学びの企画に手を染め、その実施、運営に勤しんでゐる。曰く日本歌壇、曰く東京文武館、曰くフィボナッチ森田塾。曰く風簷(ふうえん)文庫。他に取り組んでゐるものに、新宿の梓弓歌会へ出講、多年にわたる国民行動によるビラ撒き、三月から開始予定の風簷文庫系統に属する、和漢の基礎古典を本格的に学ぶ教室等等。まだまだあるやうな気もするが。

 

■思ふに、時事問題の大要は新聞雑誌書籍を読めば大概わかる。ゆゑに時局講演会の聴衆に加はること、居眠りしては欠礼この上なし、ほとんどない。これに絡んで触れておくと、かつて或る友が愚生を批評した言ひ種、「講演はさして上手くはないが、講義となると聴いて分りやすい」と。それで自恃するわけぢやないが、あまり接しない講演依頼をも断り、もつぱら講義にならよろこんで応じてゐる。恥づかしながら本音をいへば、テキストを作成する段階で復習となり、予習ともなるのが大いに幸ひするもののやうだ。以前、遽かに文天祥の正気の歌、吉田松陰の留魂録、西郷南洲の遺訓といつたたぐひの講義を頼まれた経緯があるけれど、これらには作つたテキスト及び書物のコピーを用ゐ、まあまあ相応の成果があつた、はずである。

 

■読むものに新聞雑誌書籍を挙げはしたが、雑誌だけは、購入してもこれといつた二、三の文章に目を通すぐらゐなので勿体なくて買はぬも同然。需めたにせよ難解なる論文、「意味はそれなりに解る」が頭がこんがらがる。視るのはテレビといいたいところなれど、たまに見守るニュース程度で終つてゐるのは視たうちに入るかどうか。

 

■過去、知的好人物と目す人らと話をしてゐて参考になつたといふか成る程と合点がいつたといふか安堵したといふのは、買つた本でも読み進むうちに下らぬと判断し次第、中途で潔く擲つに吝かぢやない御仁がままゐることであつた。何となれば、読了せぬ本が増えるのは加齢のせゐだと自嘲気味に陥つてゐたからだ。喜ぶべし今や心機一転、以前のごとく読書に根気が備はるやうになり、本朝物では平家物語に次いで赤穂義士に熱中する月日が過ぎてきた。

 

■二月某日の今朝、年少の友と電話で話してゐて、改めて、相手の声の調子次第でこちらの気持が明るく軽快になるものだと痛感した。突慳貪の性格ではないにしても抑揚なく公式的な言ひ回しをもつてする応対に終始する相手では、受話器を置いてから鬱鬱としてあとあと気が重い。といふことは、相手にとつても感覚同じであらう。むろん作り笑ひや下卑た声音とかは禁物、電話のみならず日常生活において常に明るく快活な態度でゐたいものとおのれを戒めてをる次第。

 

 

 

 

 

獨適賦 その3

あるときは書(ふみ)よみ更かし朝床のぬくもり沁みく眼を閉ぢゐつつ


あるときは堪(こら)へぶくろの緒をゆるべ霞が關にまく紙つぶて


あるときは四十七士の老武者を鑑(かがみ)とみがく拔刀のわざ


あるときはせぶられ唄ふ童謠のしらべゆかしみ曲えらみをり


あるときは聲らうらうと志士遺文わかきと誦(よ)みて若がへるらし

 

 

 

 

 

巨樹竦竦(しようしよう)

 昨年晩春初夏の交、靖國神社で需めた三本の苗木、楠、欅、木斛がすくすく育つてゐる。
 購入した日、新宿の事務所に泊り、部屋の机上に置いたまま翌朝山梨へ帰つたきたはいつもの忘れ癖。しばらく上京の機会なしとみて在京の友に連絡し、宅配便で送つてもらつた。慎重に梱包してくれたらしい包みを開ける。
 思ひきや運搬途中の振動なんぞで土はこぼれ、木斛のかぼそい幹が折れてゐた。辛うじて繋がつてはゐるものの半死以上の打撃を蒙つてをり、すこぶる胸が痛んだ。応急の介抱をして小鉢に移し替へたのはいふまでもない。
 三本とも、成長すれば高木となる。桜同様、夏季にはえらく伸びると聞いてゐる。案の定、小ぶりの鉢ながら伸びに伸びた。楠は四方八方へ相当枝を出して高さ六〇㎝、欅は上へ上へと伸びてひよろ長く、二m五〇ときた。
 ところが木斛だけは、さにあらず。せいぜい二五㎝程度か。十月になるまで、折れた部分を手厚くいたはり、日当りと風とを勘案して庭のあちこちへ移動頻り、この気の揉みやうは畑に生ひ茂る雑草の比ではなかつた。甲斐あつて何とか安定状態で推移し、秋、かつがつ安堵感を抱けるまでに至つた。
 樹木にせよ野菜にせよ、根が伸びてこそひとかどの花も実も成る。ゆゑに小鉢に植ゑた三本、根が鉢の内側に沿つてぐるぐる回つてよいわけはあるまい。時季的に瞠目の成長期も過ぎたことだから、ごく最近、まづ楠と欅の二本を直径六〇㎝の大鉢に植ゑ替へた。植ゑ替へてもまだ新芽を出しつつ活潑な成長過程にあるのは頼もしいかぎりだ。ただ、木斛についてはどうしたものか、只今のところ不安の感を拭へずに移植の機をさぐつてゐるやうな次第、昼間の風がひんやりとしてくれば実行に移すはずである。
 低めの榊数本は植ゑたけれど、気随気儘に大木を育てては憚りある借家に、しかもすでに松や柘植、それに公孫樹や石榴、棕櫚その他のぢかに植わる庭に、なぜに好んで鉢植ゑといふ気がかりの種を背負ひ込んだか。ここには、実はさして深くはないわけがある。
 小説でまま出くはす風景。ある家を訪はんとした主人公、土地の人にめざす家の方角を訊ねる。たとへば答へていふ、
 「あの坂を上つて行つた右側の、大きな桜のあるお家ですよ。ちやうど今ごろ、満開になつてゐるはずですわ」
 その家の目印としての樹木、一樹が象徴する家――かかる大樹の存在が妙に脳裡に焼きついて多年を閲してきた。さうして思へらく、自分の庭には、常緑落葉の別はさておいても、何ぞ天を見上げるやうな木を植ゑたいものだと。
 以前山梨市に住んでゐた頃、庭には百日紅や山茶花などの木を並べ、畑には桃と葡萄幾本かを立ててゐた。間なくして転居のことがあつたため、勿体なさから、畑のは掘り起してわざわざ関西へ運んだつけ。家移り前の桃と葡萄は、いくら花を咲かせ実をつけようとも、同じ低き桃や葡萄に囲繞された場所ぢや家の目印にもならず、象徴ともなし得なかったらう。
 目印や象徴とするには大木を聳え立たせるに足る自前の庭が要る、それも相応の広さを持つところの。だがかなしや現実は、はなはだ縁遠いことを認めざるを得ない。
 現在の借家からは、いづれ必ずや去りゆく日が来るが、そのときは臨海地へ行きたいものだとかねがね願望してゐる。これまで、何かの機会あつて海辺に車を走らせるさい、わがつひの棲家に見合ふ土地かどうか、あたりの気配を探りつつ通過するのを常としてきた。志摩も駿河、伊豆、房総も、その例外ではなかつた。例外があつたとすれば、その地方に住まふ知友には失敬だが寒さうな北方だけ。本音をいへば、志とも関はつてやはり東京により近い地を望む。
 ともあれ、その日、つまりさらなる転宅のとき、換言すれば、不便はた辺鄙であれ新しいわが屋敷地に移る日のためにも、巨木の用意は欠かせない、との単純かつは独善つぽいとしかいひやうなき理屈あるによつて抱へ込んだ鉢植ゑ。ついついにんまりしながらも育てるに汲汲としてゐるわけが、一応は分つてもらへたらうか。
 「それにしても、ちと早からう」「気を入れるべき懸案が山積してゐるといふに」といつた揶揄の声が聞えて来さうだ。謹んで拝聴はしよう。聴く素直さはあつても、こればかりは随順は至難、せつせと水遣りをやらせてもらふ。
 最近誰かが筆者を評した文句、「大変な作業を日日一人でこなす人」。思へば、度重なる引越しや試行錯誤の野菜作りに加へ、よせばいいのに「憂きことのなほこの上に積もれかし」ふうの、眼前の木育てをも指してゐるんだらう。

 

 

 

 

獨適賦 その2

あるときはめがね屋たづぬわが老眼鏡(めがね)弊(つい)えかばかり早きあやみて


あるときは子らを引き据ゑ口も酸(す)く躾けて夜さりおのれ苛む
 

あるときはつと兒ろ(ころ)いだき後の世に凛凛しからむと忍びさびしむ
 

あるときは今にかひなき白かみの賤夫(しづを)も母のおもかげを追ふ
 

あるときは我(わ)がり招(を)ぎたる客(まれ)びとにかこつ觴(さかづき)かさね醉ひあく
 

 

 

謹告 国内移動のため、数日間本欄には書くことができなくなりました。2月14日(日)に記入予定。

 

 

 

 

 

 

 

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