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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2009年10月の記事

新刊予告『シナ人とは何か  内田良平の『支那観』を読む』

< 新刊予告 >
 

 宮崎正弘 + 内田良平研究会 編著
『シナ人とは何か  内田良平の『支那観』を読む』
  (10月27日発売 定価1995円、発売 展転社)

 ―中国文明の本質を鋭くえぐり、趨勢を見極めた「強攻」外交の提言。
 ―現在によみがえる内田良平の国家戦略書。間違っていた日本人の対中理解を正す。

<目次>
推薦の辞   伊達宗義
第一章    激動する中国と問われる日本人の中国観
第二章    内田良平『支那観』(現代語訳 森田忠明)
第三章    異文明大国・中国とどう付き合うか(宮崎正弘)
第四章    『支那観』研究
第五章    内田良平『支那観』(原文)
 執筆陣   池田一貴、小田内陽太、片瀬裕、高木桂蔵、田中秀雄、永山英樹、福永武

東京裁判と「戦犯」 その15

最終回!

 

〈日本に「戦犯」はいない〉(下)

 

  国会も政府もまた動きました。国会では四度にわたり、戦犯の釈放・赦免を求める決議案を超党派的に圧倒的多数で可決します。
 「戦犯在所者の釈放等に関する決議」 二十七年 参議院本会議
 「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」 二十七年 衆議院本会議
 「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」 二十八年 衆議院本会議
 「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」 三十年 衆議院本会議
 政府は仮出所・赦免・減刑などの勧告を関係各国に対して行い、国会ではさらに昭和二十八年より三十年にかけ、「戦傷者戦没者遺族等援護法」「恩給法」「未帰還者留守家族等援護法」などを改正し、あえて「法務死」と呼称される刑死・獄死者を一般戦没者と同等に扱って遺族年金や弔慰金の遺族への支給、服役者の拘禁期間を恩給の在職期間に通算、留守家族手当の増額・帰還者に対する療養の給付期間延長等、種々の救済措置が精力的に講じられました。
 終身刑・禁錮刑だった「A級戦犯」は減刑の上での刑期満了をもって三十一年までに、国内外に服役中の「BC級戦犯」については昭和三十三年までに、全員が釈放されています。そして刑死・獄死した人びとは「BC級」が昭和三十四年に、「A級」が昭和五十三年に、昭和殉難者として靖國神社に合祀されたのです。間違いなく、いわゆる「戦犯」を「国家の戦争のための犠牲者」と見なす日本及び日本人の意思の闡明であり、これらによってわが国には、連合国が裁いた「犯罪人」なるものは一人もいなかったことになります。
 「戦犯」の汚名を着せられて刑死・獄死した人びとが、「A級」「BC級」といった区別もなく相前後して靖國神社に合祀されていったのも、一連の法改正努力とともに、すぐれて毅然とした、強烈な日本人意識の表われでした。独立回復後の官民に共通するこうした並々ならぬ営為は決して忘却せず、永く記憶に留めておきたいものです。
 ただ、大いに残念かつ激憤に値するのは、その後わが国政府の総理大臣以下の要職にある人びとの多くが、ことに昭和六十年(一九八五)以降には中国の度重なる非難に屈して、
 「『東京裁判』を『受諾』し、『戦犯』を認めたサンフランシスコ平和条約第十一条に照らして、靖國神社への『A級戦犯』の合祀には問題がある。総理大臣は参拝すべきでない」
という理屈に宗旨変えをし、中国あるいは韓国の対日論法に組み込まれたことです。おおかたの歴代首相が靖國神社に参拝しなくなりました。独立回復後の先輩議員たちの涙ぐましい努力を完全に無にする、独立国家の為政者にあるまじき、すこぶるはしたない行為といわなければなりますまい。(終)

 

 

 

玉鉾書院HPもご覧下さい。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/tamahokoshoin/

 

 

 

 

 

東京裁判と「戦犯」 その14

〈日本に「戦犯」はいない〉(上)
 

 サンフランシスコ講和条約の発効(昭和二十七年四月二十八日)により戦争状態が終わってからの「戦犯」は、国内また国外でどう評価されていったのでしょうか。
 独立の回復は国際法上、わが国にとっては、占領中の敵国の諸行為すべてが効力を失うことを意味します。神道指令や日本国憲法その他、ことごとくが破棄されてしかるべきなのです。「戦犯」も、国際慣習法に従えば、「講和すなわち国際法上の大赦」なのですから、国内国外におけるすべての戦争裁判でなされた判決の失効を確認した上で、連合国が拘禁している人々は全員無罪放免となるのが通例でした。
 ところが、講和条約には左の条文が挿入されています。
 第十一条
 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない」
 なぜ、この一条が設けられたのでしょう。いうまでもなく、鳴り物入りで開始し目論み通り終了したところの、絶対的な「文明による審判」の結果として決定を見た刑の厳粛な執行を、面子に賭けて日本政府に要求したからなのです。実は、ここに見られる外務省の翻訳文中、「裁判」とあるのは「judgments」の明らかな誤訳で、複数形でもあり正しくは「判決」としなければならぬものです(「裁判」は trial)。ゆえにこの一条は、一連の「戦犯」裁判の「判決の効力」は「受諾」、つまり「認めて執行」することを約しましたが、裁判の実体そのものまでをも「受諾」、すなわち正当と認めて賛同したのではないことになります。こうした見方ないし論理は、当時の政府の一致した見解でした。わが国政府としては同条は意に沿わないものの、早期に占領体制を終わらせる講和成立と独立回復とのためには致し方なかったのでした。
 講和条約発効後、日本国民は当然のことのように、戦争の時とは形を変えた大和魂の発揮に動き出します。裁判の内容あるいは「A級」など「戦犯」の命名は連合国の恣意であって、わが国の意思とは全然別個のものであるとの真っ当な解釈に基づき、「戦犯」救済に官民を挙げて取り組み始めたのです。
 民間団体や地方自治体は、相次いで「平和条約第十一条に基づく関係各国への赦免勧告」を行うよう、日本政府へ要請し陳情する一方、昭和二十七年初夏から全国一斉に「戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動が開始されました。署名は、地方自治体によるもの約二千万、民間団体によるものも二千万、合計四千万人以上に達しています。(続)

東京裁判と「戦犯」 その13

〈国際・国内問題の混同〉

 

 ここで大切なのは、大東亜戦争の国際的な問題と、国内的な問題とに目を向ける必要性です。というのも国内外に、
 「日本は一部の指導者によって戦争に引きずりこまれ、多くの人びとが死んでいった。悪いのは『A級戦犯』で、罪なき国民は犠牲者である」
という、為にする考え方が流行しているからです。これは、「国際法違反」の大東亜戦争を主導した「A級戦犯」、義務として戦地に送られたあげく血の負債を支払わされた「BC級戦犯」、辛酸を嘗め多大の犠牲を強いられた兵士と一般国民、というふうに図式化してみせるやり方です。もっともらしい見方ですが、根本的に間違っています。国民が蒙った犠牲と、東京裁判との間には截然たる一線を引き、異次元での判断がなされるべきであるからです。
 東京裁判法廷で弁護人によって朗読された東条英機元首相の口述書には、こう述べられていました。
 「日本帝国の国策、あるいは合法的にその地位に在った官吏の採った方針は侵略でもなく、搾取でもなかった。適法に選ばれた歴代内閣は、憲法及び法律に定められた手続に従って事を処理して行ったが、ついに我国は冷厳な現実に逢着した。当時国家の運命を商量較計する責任を負った我々にとっては、国家自衛のために起つという事が、唯一の残された途であった。我々は国家の運命を賭し、而して敗れた。そうして、眼前に見るような事態を惹き起こした。
 戦争が国際法上より見て正しい戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何という問題とは、明らかに分別できる二つの異った問題である。
 第一の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質を持つ問題である。私は最後まで、この戦争は自衛戦であり、現在承認されている国際法に違  反しない戦争であると主張する。
 私は未だ曾て、我国がこの戦争をしたことを以て国際犯罪であるとして勝者から訴追され、また敗戦国の適法な官吏であった者が個人的に国際法上の犯罪人となり、また条約の違反者として糾弾されるとは、考えたことはない。
 第二の敗戦の責任については、当時の総理大臣であった私の責任であり、この意味の責任は受諾するだけでなく、衷心より進んでこれを負うことを希望する」

 凛然たる主張でした。これが正しい解釈なのです。常識をもってすればたやすく弁別しうるものを、不用意にも元来別々の両者をいとも簡単に同次元視する無作法が、裁判より半世紀以上を経てもなお確固たる地歩を占めているのです。諸外国の中でも中国や韓国は、「侵略戦争」を発動した「A級戦犯」の非を論い、その「A級戦犯」を祀る靖國神社へ総理大臣が参拝するのは自国に対する侮辱行為だと非難しています。これらの国々は別の思惑や意図を持って非難を繰り返しているのですが、日本人自身が安易にこの異種を混同させる暴論に与することは厳に慎まなくてはなりません。
 いたずらに「A級」被告罪悪人説を温存して東京裁判に揺るぎなき根拠を与えておれば、近隣諸国ばかりか参戦各国に、「戦争謝罪」や「国家補償」を将来にわたって要求し続けさせる愚を犯すことになります。一方、東京裁判自体が、当の判事たちや世界の多数法学者から今や「違法」の烙印を押されているというのに、「A・B・C級戦犯」に問われた多くの人びとの刑死をもって「償いはすでに終わっている」などと自国を弁護する矛盾撞着は、私たちの祖国に害毒を垂れ流すことはあっても国益擁護には一利もない、と気づかねばなりません。「償い」は、悪事を働いたとの前提に立っているからです。
 なお東条大将は裁判で、大東亜戦争の開戦決定につき、天皇を輔弼・輔翼する立場にあった政府及び統帥部が全責任を負うべきものである旨、日本の政治の本質を堂々と強調しました。その辞世です。
  たとへ身は千々にさくとも及ばじな栄えし御世をおとせし罪は
  我れ行くも又此の土地に帰り来ん国に報ゆる事の足らねば
  さらばなり苔の下にてわれ待たん大和島根に花薫るとき

                                   (続)

東京裁判と「戦犯」 その12

〈「文明の裁き」の正体〉(下)

 

 ともあれ、軍事力を基盤とし植民地体制を背景とする欧米支配秩序を文明と見立てる限りは、その文明を脅かす一切の行為は、国際法の何たるかにかかわらず、また行為者に大義名分のあるなしとは無関係に、いずれ総反撃を食らい、屈するや処断の憂き目に遭おうとも不思議ではないのです。実際わが国は非情にも処断される日に遭遇したわけで、民族的個性を指す日本文化がいかに尊くはあれ、「文明の裁き」の実体である力の重みをつくづくと味わわされる無念に哭かざるを得ませんでした。
 かくして、日本を裁いた東京裁判の文明とは、想像したほどにたいそうなものではありませんでした。みずからを高しとする驕慢な西洋文明です。それは、無数の殺人と徹底破壊の避けられぬ戦争を好んで発動できる力であり、無差別爆撃や原爆投下に何の痛痒も感じない冷酷さであり、頭蓋骨をもてあそび人骨でペーパーナイフをつくることすら物の数とも思わぬ品性の下劣さでした。それはまた人倫に悖ること甚だしく、靖國神社を焼却処分に付してドッグレース場建設さえをも企みうる程度のものでしかありません。
 日本は敢闘及ばず勝利を逸しました。けれども東京裁判の断罪が異様な執念で貫かれているのは、裏を返せば、アジアの侮られがちの小国が西洋をいかに震撼させたか、どれほどか玉砕や特攻などを伴う強烈無比の戦いぶりを示したか、を物語っています。彼らの文明にアジアの一角より堂々たる叛旗をひるがえし、総力を挙げて決死の反撃を敢行したことは、敗れたりとはいえ永世誇るに足るわざではないでしょうか。
 しかしながら、圧倒的軍事力を保有する列強の意志が世界秩序のあり方を左右するにしても、「条約を尊重」せず「公正な裁判」を行わないのは、試行錯誤を繰り返しながらも何とか国際法秩序を打ち立てようと努力してきた人類の叡知に対する冒瀆でした。かくのごとき不遜な行為は容易に、次第に輪郭を整えてきた「数世紀にわたる文明を抹殺」してしまうものです。(続)
 

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