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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2009年07月の記事

世襲吟味

  野水江南 遂に留まらず
  高く飛ぶ 天地の一閑鷗
 風光明媚なる伊豫松山の地ながら、これ以上はをるまい、ただいま出奔する。あたかも天地の間に飛び遊ぶ氣樂な鷗のやうに。
 松山に封ぜられてゐた加藤嘉明に仕へて祿千石、武勇の譽れ高かつた塙團右衞門直之、關が原の合戰で東軍に與した加藤軍の鐵砲隊隊長だつたが、戰場にあつて軍令に背くを知つた嘉明が突如罵つていふ、
 「おぬしごときは一生、大將なんぞにはなれまいて」
 團右衞門は深くこれを銜み、上の詩句を邸の壁に大書して松山を去つた。
 その後、小早川秀秋や福島正則のもとにあつたが嘉明の干涉によりいづれも長居できず、たうとう京都は臨濟宗の妙心寺に投じて僧となる。大竜和尚を師とし、名を鐵牛と改めるのだが、一刀を帶びたまま托鉢して廻るものだから京の町の人びとは彼を憐れみ、かつ敬つた。
 あるとき、一商家の法事に出かけ、鐵牛は遲刻してしまつた。先に來てゐた大竜は立腹甚だしく、「師僧に遲れるとは何事か」と責め立てる。當の鐵牛、あはてず靜かに座布團を敷き、拜跪していふやう、
  一鞭遲く到るも且く怒るを休めよ
  君は大竜に駕し吾は鐵牛
 怒り心頭に發してゐた師僧だつたが、偈によるこの返答には、手に持つ拂子を投げ出してまで感嘆することしきり。後世、「塙團は戰國の一武夫なり。しかるによく禪機を悟ることかくのごとし」と稱へられる場面である。
 家康が豐臣氏滅亡を畫策中の慶長十九年(一六一四)、妙心寺を出た團右衞門は大坂城に入り、翌年夏の陣で和泉に敗死してゐる。
 その遺骸を探し求めて厚く葬つたのが、團右衞門の子の雲居和尚。德と智を兼ね備へて名望があつた。
 夏の陣では大坂城を守る兄と運命をともにしようと約したものの德川方に露見、妙心寺の師僧幡桃院一宙が捕縛される。ために雲居みづから名乘り出、縛につく。家康がその信義に感じて二人を赦免するのに、さして時間はかからなかつた。父を弔つて諸國行脚の旅に出ることとはなる。
 政宗健在の伊達家より再三の招聘あり、雲居和尚つひにこれを受けて奧州へ赴く。東山道中、美濃の靑野が原を通過したさい、七人の追剥に遮られた。金を出せと脅すのへ、從容として應へる。
 「私のわづかばかりの持ち物が、そなたたちの窮迫を救へるなら幸ひだ」
 路銀を入れた袋をそのまま與へて立ち去るが、盜賊たちはなほも追ひかけ、衣も帶も置いて行けと重ねて威す。雲居はその無體に錫杖を投げ捨て、
 ――甚だしいかな、公等の悟らざるや。それ千里裸跣(裸とはだし)は緇徒(僧侶)と雖もなすべからず。公等必ずこれを得んと欲せば、請ふ身命を倂せてこれを取れ」
 どうしても取るといふなら命も一緖に取れと一喝し、地に端坐して微動だにしなかつた。
 賊徒とて人間か、やがて悟るところがあつた。互ひに、
 ――吾輩久しく剽掠(脅しかすめる)を行へども、未だ擧止の整暇(堂堂たるさま)なることかくのごときを見ず。これ必ず高德の僧ならん」
 といひあつたかと見るや、金を返したあげく路傍に手をついて非禮を詫び、「弟子にして下さい」とまで懇願する。かうして、頭を丸めた盜賊どもを引き連れて仙臺に到つた雲居は松島瑞巖寺の住職となり、修業に勵んだ七人の弟子はそれぞれ一庵のあるじとなつたのである。
 團右衞門と雲居の父子は職掌上、おのおのの生き方を貫いて世襲といふでもなかつた。だが父子相傳と稱すべき、兩者何かしら相通ずるものがある。氣迫といはうか。また禪者の無我の境から生まれた自在な心の働き、禪氣といはうか。それは譬へるなら法律用語の世襲財産――代代その家の繼承者が相傳へ、所有者の自由處分が許されぬ財産、に限りなく近からう。塙家の財産は、少なくとも精神面における暗默の父子相傳であつた。
 頃來、喧喧囂囂の觀を呈してゐる代議士の世襲論議、貴重な時間の浪費ではないか。世襲新人あるいは三親等以内の親族に立候補制限を加へるといつても、個個の黨内の思惑や選對戰略があるであらう。一步讓り、父の後を繼がんとする息子を後援會が彊烈に押すにせよ、資質あればよし、資質なき瓦石を國會へ送るは有權者にこそ見識がなかつたといふだけの話である。世襲候補と一般候補を權利槪念をもとに天秤にかける手法はいかがなものか。職業選擇の自由に抵觸し、大方が好む民主主義なるものに逆行する妄動に相違ない。
 團右衞門父子ごとき人材の世襲なら、世間は歡迎するだらう。人物を勘考せずに一律に世襲制限を割り當てるなんぞ、あはれ人間不信亡者の不毛の所業である。

 

 

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知る無きに如かず

 ある親しい友が、たまたま愉快な氣持が動いて、嵌めてゐた高價な腕時計をくれたとする。早速使ふ。人が持て囃せば自慢つぽくもなる。あるとき、その友人が決定的な裏切り行爲を働く。當然彼と絶緣するが、時計は腕に殘る。時刻を見るたびに憎き裏切り者の顏がうかぶ。さあ、どうするか。
 薄情な行爲に走らせたは傍にゐた己れの至らぬせゐだとする、絶緣せずに懇懇と生れ變りを諭す、あるいは、友は放逐しても舶來物の時計は捨てるに忍びない、といふ世にも立派な御仁にはこの話は馬耳東風と聞き流して貰つて結構と存ずる。
 呂蒙正は宋の太宗に仕へ、四十四歳といふ若さで宰相に登庸された切れ者。淸濁倂せ吞む型の人物であつたらしい。
 參政(副宰相)となつて初登廳のさい、聞こえよがしに自分を惡しざまにいふ妬みの聲を耳にしたが、知らぬふりして通り過ぎる。憤慨した同僚が對手に官姓名を名乘らせ、これを問詰せんとしたとき、呂蒙正は彼を制止していはく、
 ――若し一たび名姓を知らば、身を終るまで忘れず。知る無きに如かざるなり。
 いつたん對手の名を知つたが最後、終生忘れられなくなる。いつそ知らぬはうがよろしい、といふ。
 ある件に拘泥すれば、そのことをしばしば夢に見るやうに、いくら腦裡から拂拭しようとしても自然と憶ひ出すもので、前進の妨げになりがちだ。この場合、ある件とは、人間や物また事件等、すべてが對象だ。
 呂蒙正は、優先させるべき人生上国家上の問題を慮り、取るに足りぬ小人に一生かかづらふことを最初から斷乎拒否してかかつたのである。戰國武將加藤嘉明が、愛藏してゐた磁器の皿一枚を誤つて割つた家來の將來のために、殘り全部を微塵と碎いたのにも、この種の事情が介在してゐた。
 世に氾濫する情報もまた時に「知る無きに如かざるなり」。ネット上のそれは、ややもすれば間違つてゐたり、二、三番程度はともあれ、四番五番煎じ以下があふれる。一日に何十本となく屆く未知からのメールは卽消去。自身の判斷が宙に浮くのを恐れるからだ。
 では、冒頭の腕時計に代表される永久に殘りかねない形あるもの、どうすればいいか。裏切り云々は別だが、筆者の經驗でいへば、萬年筆もライターも財布もアクセサリーも、みな弊履を棄つるがごとくに棄てる覺悟が横溢。食品なら腹で熟れるからいいものの。

 

 

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