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森田忠明事務所

Author:森田忠明事務所
「玉鉾書院」(志士遺文・和漢古典等の学舎)を運営。機関誌「季刊ゐしんぴあ」発行。また「日本歌壇」(定例歌会毎月開催、会報「日本歌壇」)、「國民行動」(在野有志活動網 機関誌「國民行動」 、國風講座(國民行動主催)、「玉鉾奉仕団」(皇居勤労奉仕団体)、「大詔奉戴祭」「天長節を祝ふ会」の事務局担任。nippon@plum.plala.or.jp  http://ishinpeer.jp(準備中)
(写真=北岳より望見する富士)

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獨酌舒嘯

森田忠明事務所 【社稷廓清 草莽崛起】
2007年01月の記事

人物評の最高傑作

 愛惜同情するは誰ぞ
 古来、歴史に登場して相当の働きをし、不朽の名声をいまに遺した人たちがゐる。この場合、盗跖や石川五右衛門などの大盗賊のことでもなければ、王莽や道鏡といつた簒立者もどきを指しもしない。仰ぐに足る人物のことである。
 さうした仰ぐに足る人物、わが朝に限つても、偉大なる彼が死後も生前と同じやうに同時代の人士から尊敬されつづけた例を枚挙すれば相当紙数を費やさう。つまりは、国民の崇敬の念継続して現在に至り、なほつねに追慕の対象としてある史上の人、といふのは少なからずゐる。崇敬追慕とまではゆかずとも、それなりの人物なら人びとの記憶にとどまつて折あるごとに口の端に上るものである。
 たとへば豊臣秀吉。国史の時代区分にいはゆる「織豊時代」ともあるやうに、わが国史上に一線を劃した天下人として名高いのは周知の通りだ。ふだんの会話のなかに登場する頻度も高い。太閤記を繙く者、低身分の出自から位人臣を極めるに至る、泉のごとく涌き出る機知や異常な色好み、壮大なる朝鮮出兵などで彩られた秀吉の一代記に興味津津、立身出世の好見本として巻を舎くあたはずとなるのは自然の成り行きだらう。だがいつたい、日本人のどれだけが彼を心から敬仰してゐるか。秀吉あるいは信長や家康、なるほど彼らは相応に偉大ながら、親しみは涌くにせよ不朽の名声の把持者と捉へるには大きな違和感あるを否定できない。
 元来、後生がことさら心を寄せるのは、悲劇的な生涯を生きた人物が多からう。とりわけ言行すべて至誠に発して一身の名利に恬淡、さうして悲壮なる死を迎へた英雄には、こぞつて愛惜と同情とを灌ぐもののやうである。ここに判官贔屓の語も思ひうかぶけれど、国家大危機の日に成功失敗を度外視し、至誠一貫身を挺した人物こそが景慕されねばなるまい。
 ところで、世にしばしば「評価は百年後に俟つ」「歴史の判断に任せる」等の言辞が吐かれる。とくに大東亜戦争終結時の自決者や戦争裁判での刑死者の遺書にかかる文言が散見されるが、歴史なるもの、決してさやう甘いものではない。げんに、戦後半世紀以上経たにかかはらず偏見かつ自虐の史観の横行に終止符を打ちえず、死者の魂魄に真の安住の場所、まつたく与へぬも同然ではないか。
 日本がいびつな現状のまま永く推移するとするなら、いかな不世出の傑士が出ようが、世に称へられる日は到底望みえない。ただし名が後光を差して現はれくるのは後世、志や心情や痛みを同じうする達識の人物が出現し、しかるべき評価をしてくれたときに限られてこよう。故人の精神と志を嘉するのはいづれの時代にあつても、ごく少数の具眼者でしかないのが悲しい現実である。

 桃李言はざれども
 後の世の文学者や政治家などが歴史のうへに名を成した人物を評価するのは枚挙に遑がない。とはいへそこに、心底その故人の生き方や魂を拠りどころとして雄心一途に邁進しようとの決意が稀薄であるならば、評言おのづから人の肺腑をゑぐるごとき迫真の気味を帯びぬ代物にまま堕すものだ。大方がしかりである。
 以下、目を瞠る評あるによつて故人が生き生きと蘇り、ばかりでなくまさしくその所をえた人物評の最高傑作とでもいふべきもの数例を挙げてみたい。適評を発する者、むろん具眼者にほかならない。
 かの李陵と言へば支那前漢の武将。匈奴平定の途上、不運にも敵の捕虜となつて抑留多年、つひに朔北の地に歿した。このとき史官の司馬遷が宮廷でただひとり正論をもつて李陵の弁護をなしたものの、武帝の逆鱗にふれたあげく去勢の刑に処せられ、死にまさる苦渋を嘗めてゐる。
 李陵の祖父が李広である。彼は生涯を匈奴との戦ひに明け暮れた勇将で匈奴から「漢の飛将軍」と恐れられた。李広はその先祖に、燕の太子丹を捕へた秦の名将李信を持ち、代代弓術をもつて鳴る家柄。司馬遷が「私は李将軍の姿を見たことがある。生真面目で田舎者のやうで、口もろくにきけなかつた」と洩らしたやうに、寡黙にして訥弁、金銭に淡泊、まさに先憂後楽を地でゆく部下思ひゆゑに、将兵は争つて李広の麾下に入ることを願つた。
 かくのごとき老将軍李広、作戦上の失敗を追及されたさい部下を庇つてみづから首を刎ねて死んだ。
 ――軍の士大夫、一軍皆哭す。百姓之を聞き、知ると知らざると老壮と無く、皆為に涙を垂る。
 『史記』にかう記録した司馬遷はその筆で、
 ――桃李言(ものい)はざれども、下自ら蹊を成す
 美しい花を咲かせ実をつける桃や李が無言でも人が集まり、樹下には自然と道ができる。同じやうに徳ある人物のもとには、黙つてゐても人が慕ひ集まつてきて従ふ、彼こそさういふに相応しい人だつた、と評したのである。この言ひ回し、当時の俚諺でもあつたらしいが、ともかくも私立成蹊大学命名の典拠ともなつた、この類まれな弔詞を獲得した李広、もつて瞑すべしではないか。
 さて、六十九歳の西行法師、鎌倉のあるじ頼朝に乞はれて夜もすがら弓馬の道を説き、贈られた銀の猫を惜しげもなく邸前の小僧に与へて陸奥へ下る。
  とりわきて心もしみてさえぞわたる衣川見にきたるけふしも
 兄頼朝に追はれた義経主従が籠もる奥州平泉、その衣川の館の防備状態を案じた。東大寺再建の勧進を藤原氏三代目の頭領秀衡に依頼するのが旅の主目的であつたが、早晩、義経追捕の手が伸び一戦は避けられないと見ての巡見も怠らなかつたのである。もと兵法家たりし西行の「格別に心に沁みる」との表白は、当然義経への思ひ入れを抜きにしては考へられまい。
 西行が下向してのちちやうど五百三年目、この地に杖を曳き来つたのは松尾芭蕉である。「おくのほそ道」の旅であること言ふまでもない。西行の秋だつたのに対し、芭蕉の平泉入りは夏であつた。
 「三代の栄耀一睡のうちにして」と、清衡、基衡、秀衡の藤原三代にわたる栄華の跡を見渡しつつ、
 ――偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国敗れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡
  卯の花に兼房みゆる白髪かな  曾良
 「義臣」とは正義の士たる義経を中心にした一党、「此城」は義経の居館跡である高館、「功名」は、秀衡の次男泰衡が功名心に逸つて義経たちを襲つたのへ華華しく戦つたことを指す。すなはち芭蕉がいつまでも懐旧の泪にくれたのは、操守いつこく、純情さながらの義経主従の迎へた悲運に嘆き深かつたからである。曾良の一句は、真白く咲く卯の花を見るにつけ、義経の最期にあたつて、白髪の老武者増尾十郎権頭兼房の奮戦したさまが偲ばれることであるよ、の意。
 さうした芭蕉の心は、福島に義経の四天王のうちの二人、忠勤を励んだ佐藤継信、忠信兄弟の父元治の居館跡を尋ねては「泪を落し」、佐藤兄弟の健気な妻女を偲んでは「袂をぬらし」てゐるによつても察しうる。また、塩竃神社に詣でて宝燈の寄進者、父秀衡の遺命を守つて義経のために忠義を尽し、兄泰衡に討たれた三男忠衡を、「渠は勇義忠孝の士也。佳名今に至りて慕はずといふ事なし」と賞賛してゐるに鑑みても明らかであらう。
 かうして芭蕉の紀行、よく義経一党を顕彰したと言ふべきである。

 湊川建碑と『日本外史』
 承久のとき、上代の盛時を景仰して「道ある世」の実現を図られた後鳥羽上皇の御製、
  おくやまのおどろの下をふみわけて道ある世ぞと人に知らせむ
 その御志の底流して新たな国家中興運動が展開、やうやく達成されたのが建武中興であつた。しかしひとたび成つた後醍醐天皇の親政も足利高氏の謀叛によつてむなしく瓦解してゆく。
 中興にさいしあまた忠勇義烈の士が輩出したなかに、死生を超越して純忠の精神を捧げた楠正成の活動には、ひときは瞠目すべきものがある。三世にわたり皇統護持の大義に殉じつづけた楠氏一門。
 だが、中興挫折より南北統一を見てのち、時代は戦国の争乱から江戸開幕に至る武家の専横に終始し、楠氏忠節の精神は政治の表舞台とは没交渉である。この間、人びとは楠氏の行跡を物語僧の「太平記読み」、多くの歴史記述書、江戸初期より出版相次いだ木版本『太平記』等を見聞していたく感激してはゐたが、その精神のまつたき発揚には縁遠くあつた。
 そこへ御三家の一たる水戸の光圀が修史事業を興して『大日本史』を編修、吉野朝を正統と認めたのである。そのうへで元禄五年(一六九二)、大楠公討死の湊川の地に碑を建てた。いはく、
 ――嗚呼忠臣楠子之墓
 正成の死後、じつに三百五十六年目のこと、幕府の勢威絶大の当時にあつて、わが朝の歴史観を正した意義はすこぶる大と言はねばならぬ。碑の裏面には明の遺臣朱舜水の賛を刻んでゐる。「余聞く、楠公諱は正成、忠勇節烈、国士無双なり云云」と。
 碑銘八文字に関し、保田與重郎が昭和十七年刊の『日本語録』において、
 ――万巻の著述、挙国の大軍も、わが国の歴史観から云へば、この一言の力に及ばないのである。この一言ほどにかつて歴史を動かした言葉はなかつた。鋭利無比の剣の如く、強猛無双の兵の如く、しかもこの一句のもつ詩美に及ぶものは世にない。
 かう言及したごとく、湊川建碑は大楠公崇拝の機運を一気に盛り上げ、明治維新への胎動が始まつてゆくこととなる。
 これに加へ頼山陽、幕末に近い文政年間に著はした『日本外史』の楠氏評が思想界に決定的方向を与へたことも特筆に値する。その「楠氏論賛」に、「楠氏あらずんば、三器ありと雖も、将た安くに託して、以て四方の望みを繋がんや」と国の難に尽した一統の功績に縷縷ふれつつ、「南風競はず、倶に傷つき共に亡び、終古以てその労を恤むなし。悲しいかな」と嘆じ、さうして筆を左の文言で締めくくる。
 ――その大節は巍然として山河と並び存し、以て世道人心を万古の下に維持するに足る。これを姦雄(北条・足利)迭ひに起り、僅かに数百年に伝ふる者に比すれば、その得失果して如何ぞや。
 まことに、山陽の言を借りれば、「公をして知るあらしめば、亦た以て瞑すべし」の大宣言である。

短歌「靖國」

  靖國神社に捧ぐ
攘ふべき翳ただならず賤が男もつとめ果たさむ生きのかぎりを
大君もぬかづきたまふ靖國のうつつ危ふしあに耐へめやも
みやしろにみ嘆きただにふかくして神去りまししおほみかどはや
水鳥の立つ音ならぬからびとの呼吸(いき)にもたはけ怯ゆるおとど
かりそめに施設まうくとうつけらが御靈なみする憤ろしも
あだし國われを謀(たばか)るしかすがに國びとしおほくみ國そこなふ
靈まつる誠うせたる人すらやみかげかがふり今を生くらむに
理を罔(くら)み被告分祀をなほし説く恥なきやから救ひがたしも
あまたたび民なげかしめ正すべき襟もあらじと言ふやこの期に
ほとほとにみくに亂れてはらわたゆ怒り間なくぞ沸きくるものを
まつりごとあげて禮(ゐや)なし益良夫のこころ彌猛(やたけ)となさでやむべき

近時読書有感

津本陽著『巨眼の男 西郷隆盛』上中下(新潮文庫) 天皇への敬語遣ひが快いこと類なし。「(孝明天皇は)今朝の御顔色はいいが、夜はおやすみになりかね、昨夜も七つ半(午前五時)頃まで御寝されなかった。とかく御呃逆がつよい。ただし昨日からは御湯をお飲みになるのが、御ひとくちほちほど多くなった」
上坂冬子著『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書) 著者はかの所謂追悼懇の一員。新施設建設に反対せずに有志の顰蹙を買つた前科の持ち主。帯に仰仰しくも「靖国問題に終止符を打つ!」の宣伝文句が踊るものの、書中、「国家のために命を落とした人を祀る場所に、必ずしも(陛下の)ご親拝は必要ない」とし、「神社の形式を変えて国家による護持」を実現するには「『やすくに』といい換える」「正面に燦然と輝く天皇家の菊の御紋や大鳥居を外す」等を提案する。要するに靖國を無宗教施設にせよと軽率きはまる。これでは「終止符を打つ」どころか、国内動乱を惹起させるに至らう。
梯久美子著『散るぞ悲しき―元硫黄島総指揮官栗林忠道』(新潮社) 映画「硫黄島からの手紙」の原作となつた好著。栗林忠道の人となりを活写してみごとだ。ちなみに、平成六年硫黄島行幸啓時の御製「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」「戦火に焼かれし島に五十年も主なき蓖麻は生ひ茂りゐぬ」、皇后陛下御歌「慰霊地はいま安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ」。
平松茂雄著『中国は日本を併合する』(講談社インターナショナル) 軍事問題専門家による警世の書。中国は対日非難と日中友好の誤魔化しの傍ら、アジアにおける覇権確立を目的に多年にわたり軍事膨張に勤しんでゐる。南支那海が着着たる戦略によつて中国海と化したごとく、いづれ東支那海も彼らの内海となる。北京五輪後に来る危機を克服するには、日本の海を守る相当の覚悟を持つべし、と警鐘を乱打。中華大帝国再現と日本併合の野望を挫くには生半可な対策では用をなさぬと痛感させられる。核による恫喝も視野に入れよ。
森史朗著『特攻とは何か』(文春新書) 「特攻隊生みの親」大西瀧次郎の心事を描写する。終戦時、特攻隊員に殉じ割腹して果てた大西の苦衷を思ふ。
杉本信行著『大地の咆哮―元上海総領事が見た中国』(PHP) 著者は館員の自殺事件と反日騒動の際の上海総領事だ。アジア安定の基盤たる日中関係を悪化させない、といふ理念を持つ中国担当者がものした中国論で、率直自在に中国社会を観察、チャイナスクールにしては歯に衣着せない。首相の靖國参拝については、既に「日本国の面子の問題」「国家の尊厳の問題」となつた以上、中断して解決するものではないと述べるが、その考へ方は揺れてをり、記述が錯綜して論理必ずしも明解ではない。

国民を「棄民」視する政治の現在

 「少し安心した」朝日


 小泉首相在任時の靖國神社参拝に関し、批判をものともせず詣ずべしとする人士のなかにも、二方面からの見様があつた。
 国内外の執拗なる反対勢力を尻目に曲りなりにも毎年参拝を続行するうへは、より意義を有する八月十五日、また春秋の例大祭への参拝実現へ向けて周囲から盛り上げてゆかうといふ戦術的な、いはば声援派がその一である。
 他方、絶えず寄せくる非難に辟易したか一国の宰相が、あたかも疚しい行ひであるかのごとくゲリラ的参拝を繰り返すは国威を堕としめ、他国のさらなる干渉を誘発する唾棄すべき所業と見なす嫌忌派がをり、正面切つて堂堂厳かなる参拝をなせと叫んだ。
 両者の異同は、現実派と原理派の差とでもいはうか。陳情的ながら前者はこと閉塞状況下、思考しごく尤もである。十五年ぶりの首相参拝実現は変則的であれ重宝すべき価値を有してゐた。少数の後者は実力行使こそ伴はぬが、正邪を弁別して世の似非に多少とも対峙する構へを見せたのだつた。
 では、今秋新登場の首相を見る眼はいかに変化しようとしてゐるか。衆院予算委員会での答弁をもとにその視点を探つてみる。
 予算委後の十月七日付朝日新聞社説、「ちょっぴり安心した」と皮肉とも蔑視ともつかぬ表題を掲げて新政権を論評した。曰く「安部氏の従来の主張に期待した人々にとっては、拍子抜けだったかもしれない。不安を抱いた私たちは少し安心した」と。
 敵による全的称讃は「敵ながら天晴れ」、水師営の会見を想起せずとも、信念に基づいて敢闘した者のみが摑みうる誉である。ゆゑに「少し安心」とは、敵の薬籠中の物に一歩近接した謂に尽き、所詮彼らの根柢に漂ふいと濃厚なる嫌悪感までをも払拭しうるものではない。


 将棋倒し的後退


 朝日の敵愾心旺盛なる好評を博した内閣首班は、ならば何をもつて、期待した人士をして「拍子抜け」せしめ、不安を抱いた朝日を「少し安心」させたのか。まづは平成七年の「村山談話」踏襲が挙げられる。
「国策を誤り、戦争への道を歩んで云云」の同談話は、偏頗なる史観に拠つて一方的に祖国の歴史を断罪した非はもとより、閣議決定過程の胡散臭さや爾後の歴代内閣を呪縛して独立精神逼塞に追ひ遣つた由由しさ等、実にわが国近来政治史上の一大汚点である。かかる「侵略」「植民地支配」を詫びる代物が「私の内閣においても生きてゐる」と断じ、個人的にも「談話の示した通り」に考へる旨、明言してしまつたのだ。
 軍慰安婦をめぐる対韓政治的妥協の産物、すなはち歴史改竄といふ悪名比類なき平成五年の「河野談話」についても、政府としての継承と、安部内閣での不変更を表明した。但し、米議会でも痛烈な譴責を受けつつある強制連行の「事実を裏付けるものは出てきてゐない」との指摘、なるほど賢明ではあつた。が、対米公式反論発出の報には未だ接しない。
 醜い二談話を継承すると誓つた同じ口吻は、何あらう、商工大臣だつた祖父岸信介の大東亜戦争開戦の詔勅への「署名」を「間違つてゐた」と洩らしめた。自身の不明を暴露したに止まらぬこの妄言、須く跼蹐すべき類に属する。
 明治憲法の「国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣の副署ヲ要ス」に従ひ、大臣の副署は必須の任務にほかならぬ。しかも「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」、無答責の天皇を輔弼して全責任を負はねばならず、もし副署自体を誤りといふなら、輔弼が「拒否されざる奏請」である以上、御名による開戦を強迫して陛下を欺き奉つたに等しい。「結果責任」以前に、任務の本旨に反いてゐる。


 政治の変節と心ある民


 そもそも現役大臣の副署は賛成の意の署名と異なり、天皇大権発動を輔弼した証である。大詔そのものが輔弼による渙発なるがゆゑに、誤つて副署をするとの概念はない。このあたり、輔弼と副署の実際を履き違へてゐなければ、祖父を卑しめるかやうな発言はあり得ない。質問者菅直人ともども無知かつ僭越に過ぎる。
 総じて、安部答弁に朝日の揶揄通りの側面を見る。たしかに、あの首相ならば必ずや失当談話を断乎擲ち、且つは積年の憂色を一朝にして霧散させてくれるに相違ないと過度の観測に没入した人ら、無慚にも足を掬はれて大きく失望したらう。逆思考の朝日が聊かは安堵面したのと好対照をなしてゐる。
 拉致事件や核実験等の案件にあつては強硬策を駆使しうるものの、ひとたび歴史問題に絡むや、以前の言説に比し逡巡と後退まことに顕著である。加へて首相就任早早の北京における「戦略的互恵」の約定と、靖國参拝に係はる「政治的困難を克服する観点から適切に対処」の表明とは、相交錯して期待者をいよいよ疑心暗鬼に陥らせた。
 痘痕も靨は古来出色の珍説だ。既にして自虐者曲論に靡いた安倍首相をしも、なほ京山科時代の大石内蔵助視するもまた結構。是を賞し非を糺し、つひに本年の小泉参拝ごとき佳景に鼓腹する日に際会する願望も棄て切れまい。
 離合集散と変節を常とする政治世界の煩瑣に一喜一憂するのもよからう。しかし実は、悲愴の面持で祖国を憂へる心ある国民は、政府の途方もない愚昧のために、志の上において、もはや棄民に陥れられてゐる事実に気づくべきである。
 棄民は、眦を決して原状恢復を要求する。激憤と痛歎の即時解消を要求する。

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